今までの生で、馬に乗る事はあっても馬車に乗る事など人生でたった一度であった。
まさかまた、馬車に乗ることになるとは思っても居なかった。
初めて乗った趙国の馬車とは異なり、荷物に紛れて息を潜める。馬の揺れとは違う車輪と地面のぶつかる揺れに不快感が増す。
外の空気を吸いたいと言う名目で馬車の木戸を少し開けると、流れ行く趙国の景色を目に焼き付けた。
祖国が計った策なのであろう、此度の騒動は何故か私の胸にすんなりと入り込んできた。

我が大王様がその昔、行商に紛れて趙国から逃れて祖国に帰還された際に出迎えたのを思い出す。
国境を越え、あの時のように見知った騎馬隊が迎えるのは大王様ではなく私。関を越えれば馬車から乗り慣れた馬に乗り換えて咸陽に至る。祖国・秦に帰って来たのだ。

王都咸陽であれどこの時間となれば暗闇に包まれていた。夜も松明が燃える邯鄲を少しだけ懐かしく思った。
夜分ではあるが大王様と会いまみえる事が許されているようで、自然と馬足を速めた。

「…お久しぶりでございます、我が王よ。」
顔を伏せて両手を組む。大王様の私室にある御簾がしゃらりと心地の良い音をたてた。
「面を上げろ。」
大王様の声で伏せた顔を上げると御簾越しではない大王様が其処にいらっしゃった。
「久しいな。。」私の目をしっかりと合わせて話される大王様は、面影はあるものの私が知っている幼き日の大王様ではなかった。
「かれこれ十年以上、趙に居りました故に。」「大王様はとても立派になられましたね。」「今や秦は韓を亡ぼし中華統一への橋を渡し、趙もまた時間の問題かと。」

そう。趙は直に亡ぶだろう。長年秦国を悩ませていた李牧と言う男の死はそれほどまでに趙に大きな損害を与えるのだ。
「…すまない。」「はて、大王様が謝罪される検討がつきません。」
「大王様は中華統一と言う貴方様の道を歩んで居られるのです。今までも、沢山の犠牲を払って此処まで歩まれたではございませんか。」

こつり、こつり、大王様の靴の音が響く。私の目線に合わせて腰を下ろされた。
「もう、強がらなくてもいい。」「俺はお前に恨まれてもおかしくない事をしたんだ。」 大王様のまっすぐな目から逸らそうとしたが肩を掴まれてうまく目線を外せない。
大王様とこれほど近くでお逢いするのは、私が趙国に嫁ぐ前以来だ。
逸らした目を強く閉じると、あの日から思い出さないようにしていた面影がよぎった。

嫌いだったはずの男。

秦趙同盟の際、ひょんなことから私が選ばれて嫁いだだけなのに。
なのに、いつの間にか私の中に入り込んで掴んで離さない。

ぽたり、綺麗に磨かれた床に涙が落ちる。共に居た時間は多くは無かった。彼はいつも軍師として、宰相としての責務に追われていたから。
屋敷に帰って来た少しばかりの時間が、いつの間にか沢山の思いを積み重ねていた。
「大王、さま…」私の嗚咽が交ざったか細い声を取りこぼさず、相槌をしてくださる大王様。 「ごめん、なさい。」「非国民と言われても構いません…」
「趙国宰相・李牧と言う男は…例え偽りの夫婦であったとしても、私にとっては…良き夫でした。」

ずっと我慢してきた言葉。

敵国同士の同盟によって結ばれた関係ではあったが私は彼を少なからず愛していたのだろう。
彼にとっては外交上の一手だったとしても、私にかけがえの無い時間をくれた男なのだ。
祖国が窮地に置かれた戦でさえも、彼が無事に帰ってくることを心の何処かで祈る自分が居た。
言葉にしてしまえば今まで我慢していた何かがあふれ出る。御前故に組んでいた腕も、立てていた片膝も力が入らない。大王様が掴まれている私の両肩だけが四肢を支えている。
言葉が声にならない。出るのは嗚咽と涙だけ。
広い大王様の私室に私の嗚咽と大王様の謝罪が染み渡る。悪いのは秦より牧を選んでしまった私なのに。