何なのよあの女。いつも紅炎様の後ろを金魚の何とかと言わんばかりについている、実に不愉快。
禁城であの女を知らない人間は居ないと言われる官吏試験を首席で合格した実力がある官吏らしいけれども、どう見ても色目を使った貴族のお嬢様じゃない。
あの振る舞いで貴族の出身ではないなんて言わせないわ。馬鹿にしないで。官吏試験に推薦がない下級貴族の振る舞いなんかであるはずがないわ。

私を探していたあの女が私の名前を呼ぶ。私が呼び出したのだから当然なのだけれども。
紅炎様の犬と噂されているだけあって、常に紅炎様のお側に居るあの女が本当に憎い。
紅炎様の側室である私がこちらへ来なさい、と言えば従順にも私の元へ向かってくる。
後二歩、私に近づけば其処には従者が掘った穴がある。何も気付かずに歩いてくるなんて本当に危機感の無い温室育ちのお嬢様だと言っているようなものじゃない。
ニヤリと口元を歪めた先には足場が抜けて慌てるあの女。身体をよじったせいか片方の沓が脱げ、落ちると同時に弧を描いた。


嗚呼、愉快だわ。

普段の澄ました表情とは一転、酷く人間らしい表情に私が快感を覚えた。
そうよ、私は今でこそ紅炎様の側室に成り下がった身であるけれど、私は一国の姫なのだから。
見下されるのは嫌い。常に王族は上に立たねばならぬ血統を持っているのよ。
臣下は王族を喜ばせる為に馬車馬のように動いて、玩具のように使いまわされる。飽きたら左様なら、最後は楽しい残虐的な餞別で送るわ。断末魔の響く城内が大好き。どうやって棄てるかを考えている時が至福の時なの。だから黙って私に尻尾を振って怯えて生きていなさい。

それが王族。それが許される身分なの。
でもある時に我が国へ進攻してきた紅炎様によって私の国は滅んだ。でも分かっているの、それは私より紅炎様に王としての素質が強かったの。私の国より煌の方が天下の覇者として君臨する資質があったのよ。
だからあんな女なんかに振り回されてる訳には行かないの。私は覇王に相応しい紅炎様の正室になるのだから!

ざまあみなさい、と穴を覗こうとした矢先、頬に何かがぶつかった。
ぶつかった何かの衝撃によって後ろに後退するも均衡が取れずにしりもちをついた。
頬が焼けるように熱くて、痛い。やっと何かに殴られたのだと気付く。
誰がそんなことをしたかなんて分かりきっている。その穴に居るのはただ一人。
わなわなと身体を震わせて女の名前を叫ぶと、あの女は地面に手をかけてゆっくりと泥だらけの顔をあげる。

「申し訳ございません。穴に落ちたのを見た獣が私を食いにかかって来たのかと思いました。」
直ぐに手当ての準備をさせます、と何事も無かったように踵を返そうとした。
穴から上がってきたあの女の獣のような光る目にゾクリと悪寒がした。なんなの、あの女はただの文官でしょう?

ふざけるんじゃないわよ、と私が言えば足を止めた女の目の前であいつの沓を何処かへ投げる。それを見ても何も動じないあの女に私も頬を打ったがやはり何も動じなかった。
ただ私を見つめているだけが、その瞳には何も映していないような、何か寒気を感じた。
私は臣下なんかに恥をかかされ、ただ怒りしか沸いて来ず、舌打ちを一つ残しあいつを押しのけてその場を去った。

後日、紅炎様直々にずっと後宮に篭りきりになっていたので、一度郷に顔を見せに行けと言われた。一月ほど禁城を離れ、私と側女数人で郷へと下ることになった。
流石紅炎様、正室候補である私の気持ちを汲んでくださったんだわ。何人も居る後宮の中で私だけにこんなお声をかけてくださるなんて!なんて素敵なお方なの!嗚呼、お慕いしておりますわ、紅炎様!
あんな侍女以下の色目女なんか眼中に入れてる場合じゃないわ、早速お父様に帰国のお手紙をかかなきゃ!


(名も無き側室)



…聴いたか?
 ―何の話だ?

先日紅炎様が治められた国の娘の…
 ―ああ、煌帝国に無血で降ったあの国の…

なんと愚かであろうか。
 ―ああ。なんと愚か。

あの紅炎様の犬とまで呼ばれている李に手を出すなど。
 ―側室の分際で自惚れにも程がある。

以上にこの禁城で紅炎様に必要とされている女など居るはずがないと言うに。
 ―なんでも李に怪我をさせて禁城から追い出そうとしたそうな。

愚かな…戦好きの紅炎様にそのような大義名分を作るなど。
 ―李は此度の進攻に反対したそうだ。

それはそうであろう。一度煌に降った国に進攻するなど李が許すはずもない。
―ましてはあの国は着々と煌と同じ思想を持ち始めていたと言うのに…

第一皇子はさぞかしお怒りであっただろう。
 ―なんと愚か。

あの小国は李家のことを知らぬ蛮族故に仕方が無い。
 ―あの小国は所詮天華の辺境の地にすぎない。

天華の中心に属する我らとはやはり相容れなかったのだ。
 ―真に余計なことをしてくれたものだ。

今代の李家に手を出すなぞ愚者のすることでしかないであろうに。
 ―全く、これだから蛮族は…知恵が無い。

これが我々と蛮族の違いなのであろう。
 ―これが辺境の蛮族を天華に取り入れると言うことなのだろう。

ああ、また明日にはあの蛮族の後処理が回ってくるぞ。
 ―ああ、実に面倒だ。私はあの国の戸籍を任されて居たのに、人口が激減したせいでやり直しではないか。


(ある官吏の噂話)



「どうしたのだ、膨れた面をして。」
「…黒惇殿。」
「知っておりますか?」
「あの組織の構成員…」

「わ、私より官位が上なんですよ…!?」
「…は?」

「名目上は文官としてこの国に籍がある証拠なのですが、」
「先日、我が君が喪に服されている間に久方ぶりの『煌史』編纂を行なっていたはご存知ですよね?」

「ああ、確かが若の私室から出てくるところを側室に見つかって怪我をした上に国を…」

「そ、それは…えっと…申し訳ないと思っております…」
「なんせ一国全ての戸籍を書き直すことになってしまったわけですし…」

「じゃなくて。」

「第三代皇帝時の官吏一覧を制作しようと書簡に目を通している際に気付きました。」
「皇后陛下の側近であるとは言え、何処の馬の骨とも分からぬ者が官位四位以上であるなど…癪に障ります。」

「…悔しいのか?」
「…少しだけ、です。」
「少しだけですからね?組織の人間に官位があろうがなかろうが…」

「心配せずとも、がどれ程努力を積み重ねて今此処に居るか、若が一番よくわかっていらっしゃる。」
「お前の官位は間違いなく外面だけの官位ではない、李の努力の結果だ。」


(周 黒惇)