マグノシュタットでの一件後、帰国したその日の夜。


―お疲れのところ失礼致します。紅炎様、李です。
―入れ。

扉の開く音がするとが自室へと入る。が帰国して直ぐに俺を訪ねるのは非常に珍しい。俺の側近の中で一番と言っていい程俺に対して気を使う女が訪ねて来たのだからとにかく急ぎなのだろう。
俺の前に姿を見せると胸元で手を組み、足を着いて拝手する。顔を上げろ、と言うとはゆっくりと顔を上げた。その表情は少し眉を寄せていた。
が不機嫌な理由がわからない俺は椅子から立ち上がり、梓の目の前に足を進める。 の視線に合わせて片足を着けば梓は慌てて「こ、紅炎様に足を着かせるなど…!」と、すくりと立ち上がって俺の腕を引いた。
手を引かれ、の為すがままに移動すると先ほどまで坐っていた椅子に腰をかけてを見やれば気まずそうに顔を伏せ、両膝を着いて両手を組んでいた。「それで、何があったんだ?」と肘置に肘を置いて頬杖をつく。

「た、大変申し上げにくいのですが…」袖で顔の半分を隠したまま、そろりそろりと顔を上げると目が合うと意を決したように声を振り絞ってこう言った。
「こ、紅炎様…あ、あの…その…」「…うー…」「ご無事で、何よりでした…」
目元から上しか見えていないの目がみるみるうちに潤んでいくのがわかった。驚きのあまり頬杖をついたまま動けない俺を他所に続けては言う。
「は、はじ…めてなんです…紅炎様が…わたくし達…誰一人お側に居ない処で…まっ、魔装をされて…戦われていたのが…」
ぽろぽろと流れる涙が袖に染み込んでいく。は嗚咽を我慢しながらも泣き続けている。
「き、金属器使いである…御兄弟皆様が…おっ…お揃いなのに心配するなんて…おこがましいと思っておりましたが…ですが…」 「わがきみが…戦われているのに…なに、も出来ない自分が…くっ悔しかったです…っ」

何を言い始めるのかと思えば。こいつは今自分が何を言っているかわかっているのだろうか。
涙を見せまいとしている腕を引いて引き寄せる。名臣と名高いだけあってか主の腕から反射的に逃れようと腰を引くが、もう片腕をすかさずの腰に回して退路を断つ。
じたばたと腕の中で抵抗するの耳元で「暴れるな。」と言えば従順にも抵抗をやめる。しかしながら恥じらいがあるのか俺の腕の中で小さい身体を丸めて震えていた。
いつもなら俺に触れる事に対して、敏感な上に全くと言って良い程に隙を見せないが此処まで無防備な姿を見せている。まさに好機としか言いようの無い状況である。

俺の感情など知る由もなく、は常日頃から名臣・忠臣の鑑と言わんばかりの働きをしている。それは決して感情を持たないと言う訳ではなく、むしろ感性は豊かな方ではあると思うが従者と言う一線を画した態度を保っているのだ。
煌帝国の第一皇子としては隙を見せない機敏に対応できる従者の方がありがたいのだが、一個人としてはもっと自分を頼って欲しいと思っている。眷族器もそれが理由だ。
「…こ、紅炎様…」「…なんだ。」
ぽん、と頭をやさしく叩くと少し肩の力が抜けたのか、俺の服の袖をぎゅ、と握った。驚いたせいで涙が止まったのか、いつの間にやら嗚咽だけを零しているは途切れ途切れに続ける。
「紅炎様のお力を誰よりも知っているのはわたくし達です…ですが、普段貴方様の側を離れないせいか…少しお側を離れただけで、とても不安で不安で…仕方無かったのです。」
肩に顔を寄せ、身体を擦り寄せるは、まるで親に馴れ合う動物か何かのようであった。
「こうえんさま、」いつものはきはきと喋るは其処に居らず、熱を孕んだその声に辛うじて先ほどまで存在していた理性の糸が、切れる音がした。
を抱きしめたまま背もたれから起き上がり、に重心をかけようとしたところで勢いよく部屋の扉が開いた。


「失礼します!紅炎様!!」「が此処に来てません…か…」あ、とだらしなく口を開けてこちらを見ているのは梓の兄であり側近の一人である李 青秀であった。
妹の貞操の危機であるにも関わらず、いつも暑苦しいと楽禁に言われている男が騒ぐ事なくただ居心地が悪そうに視線を外して頭を掻くその姿に違和感を覚えた。
「えーっと…大変…申し上げにくいのですが…」 「実は…帰ってくるなり神官サマに酒を飲まされて…」
此処まで言われて事態を把握していない筈も無く、溜息を一つ吐くと俺は腕の中に居るを一瞥する。
いくつもの涙の筋を残しながらも泣き疲れたのか静かに眠っていた。
思い起こすところ、が自分に仕えて十年程になるが酒の勢いとは言えあれ程まで取り乱したのは初めてだった。
「紅炎様…愚妹が、何かその…そ、粗相を…?」 「…いや。強いて言うなら鉄壁と言わんばかりの壁が壊れた瞬間を見た。」
「主と臣下」と言うにとって最も重要であろう鉄壁。
は幼い頃より李家の娘として恥じぬ女になるために勉学に励み続けていた為か恋慕の情と言うものを知らない。ただひたすらに李家の名を汚さない為に生きていた為か頼ると言う事も知らない。
故に俺との関係にはが気付かぬうちに作った壁が聳えており、それを壊さんと言わんばかりの態度で接している俺に対しては主の過剰な接触としか思っていない。いや、過剰な接触であるとしか認識が出来ない、の間違いかもしれない。

を横抱きにして椅子から立ち上がる。寝顔など見飽きる程に見ているがやはり見飽きる事などない。あれ程までに感情を露わにした後故に穏やかなそれに安堵を覚えた。
「…お前が想像している様な事は何一つ無い。」と言えば李 青秀は、はぁ…と腑に落ちない態度を見せた。眠るを自室の寝屋へと運ぶと伝え、寝屋へと足を向けた背中越しに「何か進展でもありました?」と訊ねてきたので振り返り下劣な表情を浮かべる李 青秀をねめつけると「冗談ですよ!」と言い残して早々に立ち去った。
据え膳食わぬは何とやらと言うが、一体何度目の据え膳を目の前にして喰らいついていないだろう、と隣で幸せそうに眠るの涙の痕をそっと撫でた。