壁のようにそびえ立つ男は、無言で笑みを浮かべていた。圧が強い。明日、私は首を痛めているかもしれない。じっと私を見下ろす男を、下から牽制していた。

「久しぶりですね」
「そうね」

 私たちの会話と言えば、たった二言で終わった。周囲の方が余程騒がしい。此処は私たちの家なのに、だ。

 形だけの妻である私に何も言うつもりなどないのだろう。向かい合う大男の背後で、謎の荷物が門の中へと運び込まれていく。
 久しぶりに帰ってきたと思えば、これだ。男手数人によって持ち上げられた荷物は大きさと比例して重さもあるらしい。時折「えっさ、ほいさ」と息の合った掛け声が聞こえていた。

「あそこに置いてください」

 大男、もとい李牧は振り返って男たちに指示を出す。彼の節くれだった指が示した場所は、よりにもよって主屋の、それも寝室のある方角だった。
 中庭を囲むように建てられた我が家は、決して大きくはない。李牧の功績からすれば大豪邸に住んでいてもおかしくないが、彼は案外質素な生活を好んでいるらしい。宰相と言う地位につきながらも、この屋敷は実家の面積の半分もない。華美な装飾はなく、土を固めて作られた壁には控えめな色合いの瓦が乗っているのみ。実家どころか、父の臣下でもこんな家には住んでいないだろう。初めてこの家に連れて来られた時、此処は本当に趙の都・邯鄲なのかと疑ったほどである。

 そんな家にこの大きな荷物を置く場所などあるのだろうか。いや、無い。
 慌てて李牧を追いかけると、それが鈍い音を立てて寝台の横へ置かれた瞬間に立ち会ってしまった。
 包んでいた布が取り払われ、三本足の大きな青銅が現れる。半円の椀を支える三本の足は地面まで真っ直ぐと伸びており、足先だけ動物の爪のような装飾があった。まるで象の足である。
 呆然としている間に、男たちは青銅器を置くと李牧へ拱手をしてとっとと去ってしまった。寝室に取り残された私は、目の前の広い背中へ問いかける。

「何、それ」

 思った以上に動揺しているのか、声が上ずってしまった。羞恥を胸に秘めつつ、青銅器を見やる後ろ姿をじっと見つめる。羽扇で口元を隠した李牧は顔だけこちらを向け、胡散臭い笑みを浮かべた。

「鼎です」

 それは、見ればわかる。
 口からするりと出そうになった言葉を飲み込み、私は奥歯に力を入れた。鍋に三本足が生えたような形をしたそれは、間違いなく鼎と呼ばれるものだった。
 青銅製の器は見た目こそ普段使いの器具と何ら変わりないが、大抵祭祀や副葬品に使用される。李牧は宰相とは言え、軍事に関わる男だ。国を挙げた祀りに携わることはあれど、個人的に持ち帰ることなど無いだろう。ましてや、残念ながら趙の愚王は健在である。陵墓の建設の予定も無ければ、副葬品を作る必要も無い。

 では何故、軍を率いる男の元へ鼎が渡されるのか。答えは簡単、褒賞だ。

「造ったの?」
「いえ、王より受け賜りました」

 殊勝な王が居たものだ。私は皮肉を吐き捨てそうになるのをぐっと堪えた。

 群雄割拠と呼ばれる以前は、王より戦の功績を称えられ、青銅器を受け賜ることがあった。材料も人員も必要である故に、大きな青銅器は権力の証とも称されていたらしい。
 とは言え、現在は武器にも青銅が使われるほど流通しているため、決して珍しいものではない。しかし、敢えて統一王朝に倣い、自らを正統な王であること誇示するにはうってつけの褒賞だと言える。
 太陽を焦がしたような鈍い黄金色に傷も錆びもまるで見られない。かまどのように大きなこの鼎は、鋳造されてすぐに届けられたのだろう。
 これほどの青銅器を李牧に対して下賜するような心当たりは、一つしかなかった。

「……馬陽での褒賞ってところ?」

 いざ言葉に出すと、当時の事を思い出して膝ががくがくと震え出しそうになった。
 外観とは異なり、内装はある程度装飾が施されている。他の部屋に比べても寝室は特に装飾の数が多く、中には玉が嵌められた調度品も点在している。李牧があつらえた物もあれば、鼎のように褒賞で得た物もあるのだろう。それらがよそ者の私を四方から嘲笑っているような心地がした。私は床を強く踏みしめ、胸を張って虚勢を取り繕う。

「ええ、まあ」

 李牧の低い声に、私の顔から表情が消える。決して広くはない寝室の空気がひりついた。
 私が取り繕っているなど李牧は見透かしているのだろう。笑みを絶やしていないように見えるが、視線は鋭い。
 彼の直近の大きな功績と言えば、馬陽の戦いであり、秦趙同盟である。そして、私がこの男に嫁いできた理由とも言える。私は袖に隠れた拳を強く握った。

「こんなところに置くなんて、嫌味?」
「とんでもない。己の功績をより身近に置いておきたいだけです」

 片眉を吊り上げ、顔を歪めてもなお、李牧の表情は変わらない。
 この男が屁理屈をこねれば、私なんかが口で勝てるわけなどない。罠だと理解していても、つい反発したくなるのは、李牧と言う男が殿の仇だからだろうか。

 殿。――王騎将軍は私の父の上官であり、私たちを率いた大将軍であった。
 摎様と言う前例が近くにあったゆえ、物心がついた頃には女でありながら私も武官の道を歩んでいた。最初こそ咸陽から滅多に出ることのない禁軍として士官するよう言われていたが、なんだかんだとあって許しを得、父である騰の軍門に籍を置いていた。
 それから約十年。あの日、摎様の帰りを待ち続けた幼い私は、殿や父たちと戦場を駆けた。……まさか同盟の証としての輿入れで、あの日々に幕を下ろすとは思いもしなかったが。

 秦趙同盟を発起した張本人を見上げ、私は目を細めた。

「なるほど?」

 にっこりと笑みを貼り付けると、一歩踏み出す。小さく息を吐き出し、仕切り直しと言わんばかりに笑みを深めた。
 手元では李牧から羽扇を奪ったが、拒絶される様子も、驚く様子もなく、手をすり抜けた羽扇を彼は視線で追うだけだった。
 質の良い羽根は些細な風さえも拾い、そよ風を運んでくる。一瞬にして燃え上がった目の前の男への憤りが、幾分か和らいだ。

「では宰相。私から一つお願いが」
「珍しい。なんでしょうか?」

 互いに仮面の奥にある本性を暴かんと見つめ合う。私は首をかしげ、可愛い子ぶって口を開いた。

「寝室、分けてくださる?」
「おや、ご不満ですか?」

 取り繕う私に、李牧はわざとらしく肩をすくめた。揶揄うような仕草に、眉がぴくりと揺れる。その姿が気に入らず、私は真顔になってまくしたてる。

「殿を殺めた武功が刻まれている鼎なんかと一緒に寝れるわけないでしょ」

 想像よりも低い声が出たのは、自分が思っているよりもこの男の一挙一動に苛立っているせいだろうか。羽扇を握る手にも、いつの間にか力が入っていた。

「ですがそのお願いは聞けませんね」
「なんでよ!?」

 外面を装うことを即座に止めた私は、前のめりになって尋ねる。私の怒りに気づいてもなお、李牧の表情はぶれない。それどころか幼子に言い聞かせるような素振りを見せた。まるで自分が正しいかのように。それが余計、私の琴線に触れる。
 詰め寄ったことによって私たちの距離は更に近くなり、ほぼ真下から見上げることとなった。

「まず一つ目」

 笑みは消えたものの、相変わらず李牧の瞳は凪いでいる。しかし、あの呂不韋を前にしても腹の内を見せなかった男だ。激情を顕にすることは滅多に無いのだろう。そんな相手を前に、ぐっと息を呑んだ。

「この鼎には銘文を刻んでいません」
「……は?」

 突然何を言い出すのかと目を瞬く。だから、なんなんだ。ぽかんとしたまま、私は李牧を見上げる。

 墨で書いた竹簡とは異なり、青銅器は刻んだ文章を半永久的に残すことが出来る。大半は下賜された年月やその理由、そして祖先への感謝や王を称える内容を刻むのだ。
 しかし、それは前統一王朝で盛んだった慣習である。今となっては諸侯が独自に青銅器を鋳造することも多く、褒賞として贈られることすら珍しい。とはいえ、今更銘文が無いからと言って、価値が無いとは言い切れない。栄誉として王から与えられることに意味が存在しているからだ。

 何も言わない私をよそに、李牧は言葉を続ける。

「なのでこの状態ではいつの功績で下賜された物か明確ではないです」

 一つ言い返せば百で返ってくる。頭を、抱えたくなった。柳に風どころか、私など気にもとめられていないのだろう。
 戦意を失くした私に機嫌を良くしたのか、羽扇を持つ手をやんわり掴まれ、するりと奪い返された。

「二つ目、しばらく東の部屋を傅抵、西の部屋をカイネに宛がいます」
「なんで!?」

 肩を怒らせて立ち尽くしていると、李牧の合図でカイネと傅抵が後ろに控えた。

「しばらく邯鄲に留まることになりそうでして。貴女の眠る場所は今まで通り、私の隣です」

 残念でしたね。
 全く思っていないであろう李牧の涼やかな声に、私の頭は真っ白になった。

 あたかも事実のような言い方であるが、李牧と閨を共にした事実はない。名目上、二人の寝台はあるが、大の字になって一人で眠ったことしかない。何故ならこの男はほとんどこの家に居ないからだ。
 まるでカイネと傅抵、二人の前で辱められたような気分だった。いや、おそらく気分ではなく、李牧はそのつもりなのだろう。
 握った拳が震え、悔しさから顔がかっと熱くなっていく。
 にこにこと見下ろす李牧をねめつけると、噛み締めていた唇を解放し、声を荒げた。

「私は使用人たちと同じ部屋で良いわよ!」

 主屋から飛び出す勢いで踵を返し、爪先を中庭へ向ける。
 大股で一歩。寝所から出て行こうとしたが、カイネによって正面を遮られた。

「お、お止めください!」

 この場から逃げ出すべく右往左往するも、怒りで我を忘れた私の動きなど簡単に見破られる。どっちに身体を寄せても必ずカイネに妨害された。

「同盟の為の婚姻と言えど、今の貴女は李牧様の奥方です」
「文句はこいつに言いなさいよ!」

 カイネの包囲をかいくぐることも出来ず、舌打ちを一つ鳴らす。
 視界の端では傅抵が呆れた顔をしていたが、そんなのどうでもいい。せいぜいこんな女を嫁に取ったお前らの主を憎め。

「奥方様が侍女と寝食を共にされるのは屋敷の中での李牧様の矜持に関わりますので!」

 どうか、どうか落ち着いてください。
 今にも暴れ出しそうな私に、カイネは肩に手を添えてなだめる。
 彼女については李牧の元へ嫁いでから人となりを知った。男に囲まれた環境で生まれた私同様、気性が荒いと思っていたが、案外冷静なところもあるらしい。てっきり敬語も無く、その辺の兵士と同じように罵られるなりして押さえつけられるかと思っていた。真摯な目で見下ろされるだけでなく、こうも丁寧に扱われてしまっては言い返すことも出来ない。振り上げていた拳をだらりと下ろし、私は大人しく従った。

 踏み出していた足を引くと、カイネは胸を撫で下ろしてそっと離れる。三歩後ろに下がって膝をついた彼女を見つめながら、乱れた襟を正した。

「別にあんたの為じゃないから」

 首だけ李牧に向けると、相も変わらず余裕を帯びた笑みを浮かべて私を見下ろしていた。

「カイネに感謝しなさいよ」
「ええ、勿論です」

 一騒動起きかけたにも拘わらず、李牧は眉一つ動かさない。この程度で慌てるほどでもないと言われているようで、私の顔は険しくなる一方だ。
 とはいえ、何度もいなされると段々息を巻いているのも疲れてきた。

 そもそも、いつまでも反発したところで国に帰れるわけでも無い。駄々をこねるのは止めて、此処らで郷愁を断ち切るべきだと重々承知している。
 ため息を吐き出すと、怒りと一緒に寂寞感も抜け落ちた気がした。

 肩を落とす私を李牧は機嫌よく見下ろしている。何がそこまでこの男を喜ばせているのかわからない。
 自分でも思うのだが、よくもまあ同盟のためとは言え、こんなじゃじゃ馬を同じ屋根の下に囲っているものだ。
 曲がりなりにも私は王騎軍の端くれ。別の形であれ、いつかあの笑みを崩してやりたい。

 心の中で恨み言を唱えながら李牧をねめつける。しかし当の本人は口角を上げるばかりで、ちっとも嫌悪感すら見せない。

(……食えない男)

 ぷいと顔を逸らすと、寝台の側に並んだ椅子へ勢いよく座った。唇を突き出したまま「……何か飲み物を頂戴」と言えば、拝手したカイネが膳房へと向かった。
 にこにこと笑みを浮かべたままの李牧が隣に座ったが、カイネが戻ってくるまで一切無視した。



 それからと言うもの、李牧は邯鄲へ戻るたび屋敷にやって「来た」。
 決して頻繁というわけではないが、僅かな時間しか取れなくとも必ず顔を出す。しばらく滞在出来るからと盃を交わしながら他愛ない会話をする日もあれば、様子だけを見てすぐに辺境に向かう日もあった。

 最初こそ「また来たの?」と顔を顰めていたが、「『来た』ではなく『帰って来た』ですよ」と言いくるめられてから、どうも追い返す気力を無くした。
 確かに、此処は彼が建てた家なのだから「帰る」が正しいのはわかっている。とは言え、ほとんど私が寝台を占拠していること鑑みるに、実質来客者のようなものだと思っていた。
 そんなこんなで屋敷に来るたび眉尻を下げて笑う李牧と顔を合わせるうちに、逆毛立つ猫と揶揄された私もすっかり牙を抜かれていた。

 鼎を磨くのが日課になってしまった今日この頃。
 寝室で磨き終わった鼎をじっと見つめていると、人の気配が主屋の入り口から感じた。一歩一歩がどっしりとしたそれは、侍女の足音ではなさそうだ。
 流石に盗人では無いだろうと思いながらもおそるおそる顔を覗かせると、なんと家主の李牧が居た。忙しなく顔を右へ左へと動かす姿は、何かを探しているようだった。

「李牧?」
「嗚呼、よかった!」

 李牧は私に気づくなりすぐさま駆け寄って来た。珍しく額に汗を浮かべて焦る姿に、私は目を丸くする。
 誰がどう見ても疲弊している彼に「何か飲み物でも……」と侍女を呼びに行くべく背中を向けようとした。しかし李牧に腕を掴まれ、部屋を出ることは叶わなかった。

「おかまいなく。またすぐ趙を出ますので」

 さらりと言われた言葉に、肩が落とした。すぐに鎮静してしまったが、ほんの一瞬、久しぶりに彼の顔を見て舞い上がった確かに自分が居た。
 うつむきそうになるのを堪えながら、ゆっくりと李牧の方へ身体ごと向き直る。腕を掴んでいた熱はいとも簡単に離れた。……名残惜しいなんて認めたくないものだが。

 約二年と言う月日は、私の判断を鈍らせるには十分であった。成り行きで嫌々嫁いだはずの軍人は、すっかり李牧の帰りを待つただの女になってしまったのだ。

「今日は王への謁見で一度邯鄲に戻っただけです」

 そう呟くと、李牧は小さく息を吐き出した。弱味を見せるような男ではないが、ため息はおそらく無意識に出たのだろう。声以上に疲労が顔に出ており、目の下には隈がうっすらと浮かんでいた。

 またすぐ趙を出る――つまり、また列国と戦うと言うことなのだろう。その戦術を練るために夜通し起きていたのか、それとも違う理由で眠れなかったのか。
 どちらにせよ李牧にとって戦とは、外傷よりも内側に傷を作ってしまうものだと、共に過ごす時間が増える度に、なんとなく理解出来るようになっていた。眉間に皺を寄せる姿は、苛立ちや怒りではなく悲痛を示しているのだろう。

「また戦なの?」
「……はい」

 ついこの間も燕と交戦していたはずなのに、もう次の戦だなんて。それでなくても外交のために他国へ足繁く通っていると言うのに。最近の李牧はまるで生き急いでいる。

 先程から会話をしていても李牧と一向に視線がかみ合わない。真正面から見上げているにも拘わらず、視線を逸らし続ける李牧に漠然をした不安が胸をよぎった。

「今度は、何処と?」

 李牧の言葉が途切れた。一度口を開いたはずなのに、何も言わずに閉じたのだ。普段は私が何を言い返しても口喧嘩にもならない、揚げ足取りの上手い李牧が、何も言わなかったのだ。
 不意に李牧が寝室のある場所を見て眉をひそめたのを、私は見逃さなかった。視線の先にあの鼎があることに気づき、私は目の前にある青く染め上げられた絹を握った。

「そっか。秦なのね」

 口を開くと、自分が思っていたよりも随分穏やかな声が出た。

 ……何を期待していたんだろう。
 愕然と言うより、諦めのような気持ちがこみ上げた。

 隣に居るだけで心が満たされると知り、会えない日々に胸を焦がすことを知った。派手な土産な武功など無くとも、ささやかな毎日に幸せを見出すようになった。李牧と共に過ごした時間は、私に少なからず変化を及ぼした。
 いつか雁門で隠居したいと語っていた彼の隣には、私が居ると思い込んでいた。少なからず、李牧と思いを重ねているのだろうと。残念ながら、勝手に私が思いあがっていただけだったようだ。

 羞恥で李牧の顔を直視することが出来ない。額を胸元に預け、奥歯を噛み締めたままうつむく。

「これ以上、秦に勢いをつけさせるわけには行きませんので」

 抑揚のない声に胸がきりきりと悲鳴を上げる。その言葉を、どんな顔で言っているのだろうか。
 結局、私は王騎軍の兵力を削ぐために人牲として選ばれたに過ぎなかったらしい。秦趙同盟を発起したにも拘わらず、彼はいとも簡単に破棄するのだ。

「そう」

 素っ気なく答えると、額に李牧の肩がぴくりと震えたのが伝わった。そんな動揺も出来るのか。大樹のようにどっしりと構える姿しか知らない私には意外だった。
 つむじに視線を感じ、おそるおそる顔を上げる。

「暴れないんですか?」
「私のことなんだと思ってるの」

 行動を読まれるぐらい、彼の中に私と言う存在があったのか。いつものようにああだこうだと言い返すのを想像していたのだろうか。少しだけ嬉しくなったが、笑って誤魔化すしか出来なかった。

「それとも、戦になる前に私のことを国へ追い返したいの?」

 首をかしげ、服を掴む手に力を籠める。意趣返しをしてみたくて、本音をぶつけてみた。秦を、父上や殿を、大切に思う私が何も言わないのが不思議だったのだろう。李牧は訝しげに私を見下ろしていた。

「それは……」

 口をつぐむ李牧を見上げながら、私はうまく笑えているだろうか。

「その方が、貴女は戦禍に巻き込まれず余生を秦で暮らせると思います」

 誰もそんなこと、望んでいないのに。
 同盟が決裂し、私の立場が悪くなる前につき返そうとするなんて、この男は何処まで優しいのだろうか。たかがお飾りの妻にそこまで配慮する必要なんて無いだろうに。むしろ、母国のことよりも李牧のことばかり考えていたなんて知られたらどうなるのか。
 眉根に力を込めた姿は、やはり悲痛と言う言葉が良く似合っていた。今から戦を仕掛ける男の顔にはてんで見えない。

「帰らないわよ、私」

 ふ、と力なく笑うと、私は李牧から一歩距離を置く。釣られて李牧の視線もわずかに動いた。青い瞳は私を捉えてはいるが、その奥にある憂き目を見ているようだった。

「例え秦が滅んだとしても、あんたを恨むなんてしないから。そんな情けない顔してないでいつもの李牧に戻りなさいよ」

 誰にどう言われようと、私はこの邯鄲で夫君の帰りを待つ。例え夫本人に拒絶されたとしても、だ。
 お飾りであろうと、戦力削減のためであろうと、私は李牧と言う男について行くと決めてしまったのだ。

「でも、まぁ。敵国へ置き去りにされたうえ、夫が死んでも自決しない細君なんて罵られたくないから、せいぜい死なないことね」

 ま、武運をなんて言ってあげないけど。
 ぽつりと後付けすると、そっぽを向く。もはや自分の一方的な思いだと気づいた手前、本人を目の前にして素直になるのはどうも難しかった。
 本当はもっと正直に「死なないで」と告げたかった。喧嘩を売るような物言いに、いたたまれない気持ちが後から後から積もる。こうべを垂れた私は身を引くべく一歩後ずさろうとしたが、遮るように正面から手首を掴まれた。

「うぇ!?」

 この部屋には私と李牧しか居ないのだから誰の手なのかは分かっている。しかし李牧から触れるようなことはめおととなって初めてで、蛙を潰したような変な声が出るぐらいには私は動揺していた。

「李牧? どうしたの……っ!」

 顔を覗き込もうとした瞬間。突如として腕が抜けそうなぐらい引き寄せられた。視界一面の青。固い胸板に、私は飛び込まざるを得なかった。
 当たり前だが、李牧と抱擁したのは今が初めてだ。自分のことを棚に上げるが、李牧の心臓が思っていたよりも早く動いていてどきまぎしてしまう。
 覆いかぶさるように肩から背中へ、後頭部へと腕が回る。柔らかい髪が首筋にかかる。息遣いすら耳元ではっきりと聞こえ、密着し合った身体からは鼓動が響く。李牧の突拍子もない行動に、期待してしまう自分が居た。

「必ず、帰ってきます」

 それは虫の声ほどの声だった。
 自分の世界に入り込んでいた私が「え?」と聞き返すよりも早く、李牧は再び口を開いた。

「必ず帰って、ちゃんと気持ちを伝えます」

 顔のすぐそばにあった李牧の気配がわずかに遠のいた。顔を上げると、睫毛の根元まで見えそうな距離で見つめあう。視線が絡むだけでぎゅっと心臓を鷲掴みされたような感覚になり、眉尻が垂れ下がってしまう。だらしない顔にならないように唇を噛み締めていると、肩に回っていた腕がするりと腰に移動した。

 これは、期待してもいいのだろうか。
 李牧の本心は測りかねる。けれど、痛いほどの抱擁に他意を感じることも今の私には出来なかった。

「なので、帰ってきたら『おかえり』と迎えてください」

 耳元で囁かれる言葉に、涙が出そうになる。例えこれが彼の策略だとしても、この瞬間だけは帰るべき場所として私を選んでくれているのだ。今はただ、李牧が無事に帰って来ることだけを考えたかった。

「うん。仕方ないから待ってあげる」

 ずびっと鼻をすすると、思ったよりも音が大きくて照れくさい。私は誤魔化すように胸板に顔をうずめ、広い背中に手を回した。

(もう少し、このままで居たい)

 次はいつ屋敷に帰って来るのか分からない。そもそも向う先は戦場である、帰る約束すら出来ない。これからのことなど考えても不安が募るだけだ。
 伝えられる範囲で思いの丈をぶちまけたつもりなので、今は李牧から与えられた甘言の余韻に浸っていたかった。
 時期に訪れる別れに思い耽っていると、頭上から息の漏れたような笑みが聞こえた。

「あの鼎を私だと思って大事にしてくださいね」
「しないわよ、あんな曰く付きの鼎」

 さっきまでの雰囲気は何処へやら。擦りつけていた額を服から離し、食い気味で答える。情緒をぶち壊されて少し苛立ったが、見上げた李牧が満足そうにしていたので毒気を抜かれてしまった。
 胸の高鳴りを返せと思ったものの、しんみりしたまま見送るよりも幾分か肩の力が抜けた気がする。

 束の間の抱擁を終えると、李牧は早々に邯鄲を去った。



 李牧が邯鄲を去ってどのくらい時が過ぎたのだろうか。
 毎日のように侍女へ「報せは無いか」と尋ね、時折やって来る従者には「戦況はどうなっている」と胸倉を掴むのが日課となっていた。
 噂では李牧の率いた合従軍は、秦の首都・咸陽まで侵攻しているらしい。邯鄲まで情報が回って来るまで時間を要すのだろう。いくら従者をとっ捕まえても、めぼしい情報は何日経っても得られなかった。

 最近は落ち着かない心を静めるため、いつもの倍以上時間をかけて鼎を磨いていた。秦はどうなったのか、李牧は無事なのか。手持ち無沙汰だとぐるぐると考えてしまうのだ。おかげで鼎には錆びも曇りも一つとない。

「はぁ……」

 何度目か分からないため息を吐き出す。天井を見上げ、また気分が滅入る。
 主屋は特別装飾が施されている場所であった。来客をもてなす応接室もあれば、私たちの寝室もある。簡素な色合いしか無いこの屋敷にしては、金や朱と鮮やかな調度品が並んでおり、唯一実家のような居心地の良さがあった。
 しかし家主の欲の無さは隠すことが出来ないらしい。天井は装飾も彩りも無い。

(もう何を見ても戦や李牧のことしか考えられないな……)

 無心になるため、何層にも重ねられた梁を数えてみようかと思った矢先。突然ざあざあと外が騒がしくなった。

「雨?」

 さっきまで陽光が出ていたはずなのに。外の様子を伺うべく、鼎の側から立ち上がり、透かし彫りの花窓を覗き込んだ。
 夕時雨と呼ぶにはまだ明るい時間ではあるが、銀糸のような雨は途絶えることなく中庭を打ち付けていた。

「余計に気分が滅入るじゃない」

 下唇を突き出して不貞腐れていると、窓の向こうに複数の人影が見えた。裾が翻るのも気にせず回廊を走るその姿は、明らかに急ぎの報せを運んでいる。扉を開け、主屋に向かって来た侍女たちを迎え入れると、侍女たちは膝をついて一斉に話し出した。

「ちょ、ちょっと待って! 一人ずつ喋ってよ!」

 慌てふためく侍女たちと同じ目線になってなだめる。雨のせいで服が少し濡れていたが気にすることもなく、彼女たちは呼吸もままならないまま言葉を紡ぐ。

「だ、旦那様が!」
「お戻りになられましたっ!」

 平伏する侍女たちに、目を瞠ったまま見下ろす。壁一枚隔ているはずの雨音が、急に近づいた気がした。

(李牧が、帰って来た)

 心の臓が跳ねる。さっきまで主張など無かったのに、自分はこの日のために鳴りを潜めていたと言わんばかりに暴れ出した。
 死んではいないのだろうと思っていたが、急な帰還に動揺を隠せなかった。まさかこんなしみったれた顔で出迎えることになるとは。せめて化粧ぐらい直したかった。

 侍女たちが指示を仰いできたものの、急すぎてうまく思考が纏まらない。彼女たちに何をしてもらうべきか呼吸を整えて考えようとしたが、また外の回廊が騒がしくなった。
 侍女共々顔を上げると、李牧がこちらに向かっていた。普段の温和な李牧からは想像出来ないような厳格さを纏っている。いつもと異なる雰囲気に強く引き止めることが出来ないのか、屋敷の従者たちだけでなく、カイネたちでさえ足早に歩く背中へ声をかけるだけで精一杯のようだった。

「お待ち下さい、旦那様!」
「李牧様!」

 従者たちの静止の声を振り払い、李牧は主屋の敷居を跨ぐ。まるで私が此処に居ることを最初から知っていたような足取りで、迷うことなく寝所へやって来ると、無言で目の前に立った。

 側に居た侍女たちは李牧がやって来たと同時に私の背後に回り、両膝をついて拱手していた。
 回廊を大股で歩く姿は遠くから見ても威圧感があったが、いざ目の前に立つとそうでもない。片膝をついていた私は立ち上がると裾を軽くはたき、李牧を見上げた。

「おかえり、李牧」
「ただいま帰りました」

 陰りはあるものの、いつも通りの柔和な口調に少しだけ胸を撫で下ろす。余程急いで屋敷へ帰ってきたのか、亜麻色の毛先からところどころ雫が滴っていた。
 頬を伝う雨水を拭うと、すぐさま侍女たちに布巾を持って来させる。心配そうにこちらを見つめているカイネには悪いが、布巾を受け取ると、私は主屋から人を遠ざけた。

 二人きりになった寝室は雨音しか聞こえない。私はわしゃわしゃと李牧の濡れた髪を拭いていた。背伸びをしていることもあって多少乱暴になっていると思うが、彼は何も言わない。屈むわけでも背筋を伸ばすわけでもなく、ただ茫然と立っていた。落ち込んでいるようにも見えるが、彼の本音は分からない。けれども、どちらが勝利したか彼らの身なりや雰囲気で察してしまった。

 つまり、たくさんの血が流れた。それもたった一国のために、たくさんの国から。李牧はきっとそれを悔やんでいるのだろう。
 上に立つ者は、脆い部分を見せることが出来ない。どれだけ傷ついていようと、彼は涙を流せないのだ。そんな現実が、無性に悔しかった。

「あんたも、負けるのね」

 どう話を切り出して良いか分からず、棘のあるような言い方をしてしまったかもしれない。髪を拭く手が止まり、背伸びしていたかかとが床を踏みしめる。視界は群青の絹でいっぱいになった。

「嘲笑いますか?」

 覇気の無い声に、喉の奥が詰まる。顔を上げると李牧は私をじっと見据えていた。そんな顔をさせたかった訳じゃないのに。布巾を握る手に力を込もる。

「笑ってやろうと思ったけど」

 雨で冷えているとは言え、服越しに人のぬくもりを感じる。
 熱気漂う戦場で、背筋が凍るような冷たい手を握った時とは違う。彼は、生きている。

「けどっ……!」

 掴んでいた布巾を放り投げ、李牧の腰に両手を回した。

「秦は強かったでしょって笑ってやろうと思ったのに!」

 背伸びをし、辛うじて心臓の近くまで耳を寄せる。確かに脈打っている。李牧の五体も、傷はあれど欠けることなく私の腕の中に収まっている。

「無事に帰って来たあんたを見て、喜んじゃったじゃん!」

 すがるように胸元へ顔を押し付けると、気が緩んでしまったのか涙腺が決壊した。
 撤退してもなお敗戦の兵士は背中を追われるものだ。きっと李牧を逃がすためにも血は流れているはずだ。今まで何十、何百人と見た志半ばで散った同志を見送ったからこそ、あの恐怖を知っているからこそ、無事に帰って来ることの重みを、この命がほぼ無傷で帰って来たことの意味を深く受け止めるのだ。私が喜ぶ一方で、誰かが泣いてるのだろう。それでも、喜ばずにはいられないのだ。感情と言うのは、実に厄介なものだろうか。

 腰へ回した手に力を入れるが、李牧は全く動かない。嫌なら引き離せばいいし、何かしら反応があってもおかしくないはずなのに、だ。
 おそるおそる顔を上げると、李牧は無表情で私を見下ろしていた。

「何よ」

 視線がぶつかり、目を細める。低い声ですごんだつもりだったが、涙声のせいでちっとも覇気は無かった。
 不快を露わにしてもなお、李牧は黙ったまま。ただただ、私を凝視している。正直、無反応が一番困る。李牧が何を考えているのか分からないなら、いっそ笑われていた方が幾分かましだろう。

 しかめっ面で李牧と対峙していると、不意に彼の口元が緩んだ。

「何にやにやしてんのよ」
「いえ、まさか自分が此処まで貴女に骨を抜かれていたとは思わず」
「はいはい骨抜きね……って、え!?」

 また戯言をこねくり回すのだろう。肩をすくめて聞き流そうとしたが、予想外の言葉に李牧を二度見した。私の聞き間違いだろうか。目を瞠ったまま、私の思考は停止した。

「わ、私が惚れてるじゃなく……?」

 動かない頭を使って精一杯の言葉を口に出したが、直後にやらかしたと思った。私は今、趙国で一番自滅と言う言葉が似合う人間だろう。
 李牧の視線が生暖かい。自分の失態が及ぼす害は計り知れないだろう。みるみるうちに熱が首から上へ上へとのぼっていく。

 顔を見られたくなくて咄嗟に李牧の身体を押し、後ずさる。力一杯押しのけたはずだが、李牧の足元がふらつくことは無い。つむじに感じる視線から逃れたくて、私は背中を向けた。

 笑われる方がましだと思っていたが、前言撤回。この男に茶化されるのは悔しい。いや、それも語弊があるだろう。少なからず好意を持った男に本心を嘲笑われるのが張り裂けそうなぐらい苦しいのだ。私だけ本気なのがつらい。それを気付かれたくなくて、虚勢を張ることしか出来ない。
 羞恥か、それとも己の不甲斐なさか。止まっていたはずの涙が膜を張るのを、歯を食いしばって我慢していた。

「そういうところは可愛いらしいですね。新しい一面が見れました」
「は、はぁ!?」

 くすりと笑う声に、私は勢いよく振り返った。しかし、想像していた表情とは異なり、李牧の笑みは凪いでいた。慈しみさえ感じる穏やかな笑みに、私はたじろぐ。

「貴女は聡明で、けれど人の痛みには人一倍繊細でしょう?」

 私の弱い部分を的確に当てられ、肩がぴくりと跳ねた。尋ねているはずなのに、確信をついた声色に喉が詰まる。まるで私の本質を見抜いているような瞳から、視線を外すことが出来なかった。

「しかし、柔い部分を下の者へ絶対に見せない強さがある」

 突き放したはずなのに、一歩、また一歩と李牧が近づいてくる。

「敵将に輿入れしたとしても矜持を忘れることなく気高いままですが、厳しくもありながらも持ち前の人柄で屋敷の者にも好かれている」

 ……何故か思いもよらない方向へと話が進んでいないだろうか。
 秦に居た頃から称賛とは程遠い生活をしていたので、突然の世辞にめまいがする。
 こめかみに指を押し当てる私をよそに、李牧は更に口を開こうとしたが、音が出るよりも先に、空いた手で彼の発言を制した。

「ま、待って? 何? 新手の拷問? それとも嫌がらせ?」
「まさか」

 片眉を吊り上げると、李牧は小さく左右に首を振る。いくら他意の無さそうな微笑みを向けられていたとしても、急におだてられれば誰だって警戒するだろう。

「私はそれほど貴女を評価していると言うことです」

 気付けば元の鞘。目の前では李牧が背後で手を組み佇んでいる。退いたところでおそらくまた詰められるだけだろう。穏和な見た目とは反して獣同様に獲物を追い立てるのが上手い男に、私は眉をひそめる。当の李牧は逆毛立てて威嚇する私に苦笑していた。
 しばらく互いの出方を伺っていると、折れた李牧が先に口を開く。

「本当のところを話すと、呂不韋が選んだ候補の中に貴女は居なかったんです」
「え……?」

 思いがけない言葉に、強張っていた肩の力が抜ける。ぽかんと口を開く私を見て、李牧は目を細めた。

「確かに彼が選んだ女性は皆、とても魅力的で邯鄲に来れば美姫の再来と呼ばれることもあったかもしれません」

 当時のことを思い出しているのか、李牧は目を伏せたまま話を進める。

「生憎、私は家を華やかにする従順な女性より、馬を乗りこなすような気骨ある女性の方が好みでして」

 見上げたまま動かない私の手を取ると、両手で壊れ物のように包み込んだ。
 大きな掌が、手の甲をさする。剣や手綱を持つ私の手は、決して綺麗と言えるものではない。私にとっては殿や父上と肩を並べたい一心で鍛錬に励んだ勲章のようなものだとしても、世間がどう感じているかは一目瞭然。そんな女らしくない手を、李牧は嫌な顔をするどころか口角を緩めて見下ろしていた。

 非難されることはあれど、私の努力を認めてくれる人はほんの一握り。この男が後者だったことに、胸がぎゅっと締め付けられた。

「草原を共に駆け抜けるような稀有な女性を所望したいと難癖をつけてみようと思ったのですが、ふと貴女のことを思い出しまして」
「提案したらそのまま呂不韋が承諾した、と」
「ええ」
「……稀有で悪かったわね」

 誤魔化すために不貞腐れたふりをする私を見て、眉尻を下げて笑う。

「言うべきところはそこですか?」

 きっと李牧には私の気持ちなんてお見通しだろう。
 私の人生は、ずっと殿と父上の背中を追いかけてきた。しかし人生はたった一言で一変した。
 女であることを理由に後ろ指を指されながらも功績を挙げた日々も、突如として同盟の強固のため戦場から遠ざけられたことも、不条理だと嘆いた全てが、今日の為にあったように思えた。

 一つ息を吐き出すと、李牧は背筋を正し、改めて私に向かい合う。真摯な瞳に射抜かれ、私の背中もすっと伸びた。

「あの時、貴女を選んで良かった」

 いつもと違う李牧の姿に、頭を殴られたような感覚に陥った。時折見せる、凪いだ笑みではない。しかし私には微笑えんだとしか形容出来ない。こんな大男にも拘わらず、今にも消えてしまいそうで。私は無意識のうちに、手を握り返していた。彼を、この場に繋ぎ止めておかねばならないと思った。

「これからも、貴女とは痛みを分かち合う関係になりたいと思っています」
「痛みを、分かち合う」

 脳裏をよぎるのは、摎様や殿のことだった。二人だけではない。同じ戦場を駆け、祖国へ共に帰ることが叶わなかった同志たちも沢山居る。その数は私の両手で済むはずもなく、何十人の両手足があっても足りないだろう。時代性ゆえ特段珍しいわけでもないが、かと言って誰しもの喪失感が無くなるわけでもない。

 見ないふりをしていた空虚に圧し潰されそうになる。いつの間にか片手同士で握っていた手をそのまま、私は李牧の胸に頭を預けた。

「そうね。お互い色んなものを失いながらも、今此処に居るんでしょうね」

 頭上の李牧は何も言わなかった。知人の、他人の屍の上で暮らしていることを、きっと彼は誰よりも理解し、傷ついているからだろう。静まり返った部屋には、雨音しか聞こえない。

「そりゃ私も最初はどうしようもないってぐらい、あんたのことを恨んでたわよ」

 世界に音があったことを思い出したように、ぽつりぽつりと話し出す。

「でも恨んだって殿は帰って来ないし、秦に帰れるわけでもない」

 李牧は相変わらず何も言わない。ただただ、私の言葉を待っているようだった。

「いくら同盟だからと言って敵将の女が今更帰ったって居場所なんかあるわけない」

 口を動かしながらも繋がっていた手を解く。見上げると、李牧は苦虫を噛み締めたような表情をしていた。流石の私でも今の李牧がどんなことを考えているか想像がついた。尤も、それは杞憂なのだけど。
 私の心境は全く淀んでおらず、むしろ晴れ晴れとしているのだが、彼は気付いているだろうか。私以上に私を懸念してくれていであろう男に一つ笑みを向けると、胸に迫る思いで口を開く。

「だから私が帰る場所は、あんたの隣しかないのよ」

 言い切ると李牧の胸に顔をうずめた。自分が今、どんな顔をしているのか見られたくない気持ちと、やや意地を張っているもののやっと本心を告げることが出来て喜びをどう表現すればいいか分からなかったのだ。頬が緩むのを堪えながら、背中へ回した手に力を入れた。

 しばらくして李牧の腕が私の背中に回った。力一杯抱き着いた私が言うのもなんだが、圧死するのではないかと思う力強さで、思わず背中から手を離してしまった。
 うなじに触れた掌が熱い。先程まで私が抱き着いていたはずなのに、今は逆転して李牧が私を抱きしめている。いつもの余裕は微塵も感じられない。無言で腕に力を籠める李牧は、秦を攻める前の抱擁を彷彿とさせた。

 高鳴る鼓動にどぎまぎしていると、あの時と同じく李牧は耳元で囁いた。

「私は貴女の大切な『殿』を奪った張本人です。恨まれることはあれど、抱擁し合える日が来るとは思いませんでした」

 それは私も同じだ。
 殿の仇敵と同じ屋根の下で暮らすだけでなく、惹かれ、思い合うことになるなんて思ってもいなかった。

 すれ違っていた時間を埋めるように、長い抱擁が続く。いつの間にか雨は止んでおり、軒下を落ちる雫を陽光が照らしていた。
 外に目を向けたのか気に入らなかったのか、遮るように李牧の身体に押し付けられる。意外と子供っぽいところもあるのだな、と勝手に頬が緩んだ。

「あの鼎も、大事にしてくれていたんですね」
「別に、あんたの為じゃないけどね」

 わざと気を引くために明るい物言いをする李牧に、精一杯の皮肉で返す。
 以前であれば売り言葉に買い言葉で言い負かされていただろうが、言葉の含みを受け取れるようになった。尤も、李牧だって私の意地の張り方を理解しているだろうから、お互い様だと思うが。

「愛情込めて磨かれていたのが一目で分かりますよ」
「さっきからよくもまぁ、歯が浮くような言葉をぺらぺらと言えるわね」

 呆れた口調で返すと、李牧の腕から力が抜けた。密着していた身体にわずかな隙間が生まれ、自然と視線が上がる。案の定、李牧も私を見つめていて、蜜のような笑みを浮かべていた。

「裏表が無いと言ってもらえると嬉しいですね」
「……帰って来た時はしおらしかった癖に」

 唇を尖らせ、私はわざと不満げに言う。しばらく顔を見合わせると、どちらからともなく笑いがこみあげてきた。
 怨恨が渦巻いていたはずの私たちが、こんな穏やかな時間を過ごすことになるなんて。

「ねぇ」
「なんでしょう?」
「帰ったらちゃんと言ってくれるんじゃなかったの?」
「おや、さっきの言葉ではご不満ですか?」
「……ちゃんと言ってないもん」

 下唇を突き出してむくれていると、不意に身体が宙を舞った。

「ちょ、なにっ!?」

 軽々と抱き上げられ、李牧の片腕に座らされる。「重いから」とじたばたしてみたものの、李牧の体躯は少しもぶれない。

「せっかくならば、同じ視線になりたいと思いまして」
「い、椅子に座ればいいじゃない!」

 二脚並ぶ椅子を指さしたが、李牧からの返事は無い。
 背中を支える腕は力強く、床に足をつけることは諦めるしかなかった。仕方なしに李牧へ顔を向けると、わずかに見下ろす形になっていた。
 顔にかかっていた亜麻色の前髪がはらりと落ちる。見上げる姿は何故かすがすがしい表情をしており、吸い込まれるように私も彼を覗き込んだ。

「愛しています」

 私を支える腕が力む。彼も緊張しているのだろうか。わずかな揺れだが、咄嗟に李牧の肩を掴むには十分だった。
 彼から紡がれる言葉を一言一句聞き逃すまいと、全神経が李牧へ向いているのがよく分かる。より近づいたにも拘わらず、私の心中はとても穏やかだった。

「きっかけはどうあれ、共に過ごした時間は真実だと私は信じています」
「……私も」

 肩に触れていた手を首に回し、勢いよく李牧に抱き着く。私の奇行に驚いていたようだが、すぐに体勢を整えて抱きすくめてくるのだから、この男は本当に一枚も二枚も上手である。

「なんか、やっと本当のめおとになれた気がする」
「私もですよ」

 腕の中で喜びを噛み締めていると、鼻先がぶつかる距離で李牧が微笑む。屋敷に戻って来たばかりの険しい表情は一切無い。此処が彼にとって帰るべき場所、飾らずに居られる場所になれている気がして胸が温かくなった。

 私たちは常に、屍の上で生きている。
 李牧も、私も、たくさんの人を殺めてなお、この屋敷でのうのうと暮らしている。それはきっと来世も共に居たいなど口に出せるような所業ではない。死んだ者からすると恨み言の一つや二つ、百でも言いたいだろう。
 けれどその恨みも、痛みも、背負うのは一人ではない。李牧の分は私も、私の分は李牧も、分け与えて生きていけるはずだ。勿論……幸せも。

「あんたが嫌って言っても蛙が這う地の底までついて行くからよろしく。旦那様」

 身を捩じらずとも触れあえる距離。私は目を閉じ、わずかに顔を傾けて自ら李牧へ唇を重ねた。
 戦帰りでかさついた唇は雨のせいか体温は低い。それでも生きるぬくもりを感じずにはいられなかった。

 離れがたいがゆっくり離れると、李牧は目を丸くしていた。彼が虚を突かれるなど、滅多に見られるものではないだろう。いつも振り回される側の私の気持ちを思い知ったか、と少しだけ優越感に浸った。

「その科白、そっくりそのままお返しします」

 ぎらりと光った瞳に、腕から逃れようとするが既に遅し。もう一度重なり合った唇は先程よりも熱かった。

「……最後の居場所は、貴女の側に」