「李牧、カイネ達が来たわよ」 邯鄲から馬を走らせて数日。国境沿いの小さな村で傅抵と共に馬を降りた。 私達に気付いた様が城門を改修していた李牧様をお呼びになった。相変わらずその声はよく通る、と思った。 様は李牧様の奥方だ。秦趙同盟の折、李牧様が名指しで直々に奥方へと迎えられた。 敵国の、それも将として戦場を駆け抜ける女を嫁にもらうと言われた時は流石に血迷われたのでは……と思いもしたが、彼女は若き将の中で頭角を現しつつあった上に、特段王騎を慕う人物の一人だった。国を脅かすの芽は摘んでおく理由で選ばれたのだと思う。 正確に李牧様から聞いたわけでも様から聞いたわけでもないが、なんとなくあの頃のお二人の言動から汲み取れた。 隙をついて様が李牧様を打ち取るのではと気が気でない時期もあったが「私が一人で簡単に殺せる人間なら、殿が打ち損じるわけがないでしょ」と李牧様を目の前におっしゃったのだ。驚く私達を余所に盃を交わしながら李牧様と笑い合う様にすっかり警戒心も薄れてしまっていた。 そして先の合従軍を率いた戦いで李牧様は丞相を剥奪された。今は隣国との境目にある村々へ行き、防塞造りなどを現場で指示をされている。 元々李牧様は北方の最前線地で死闘を繰り返していた。戦に備える為の助言を人々へ与えるのは適材だと思う。が、そんな器で収まる人ではない事は雁門からずっと側に居る私達が一番よく理解している。一刻もはやくこの謹慎が終わる事を願っていた。 李牧様に邯鄲の動きを報告し終えたタイミングで様が私達に湯呑を出してくださった。 湯呑を受け取り、礼を言うとは小さく微笑まれた。嫁がれた当初からは信じられないほどの緩和っぷりである。 (あの頃の様は、狂犬さながらだったからな……) むき出しの刀身も驚くような様を思い出して眉間に皺を寄せていると、様は李牧様に湯呑を手渡され、「席を外した方が良い?」と声を掛けられた。 「今更遠慮なんてされても気持ち悪いだけですよ」 李牧様の軽口を嫌味とも受け取らず「あらそう」と当たり前のように隣に腰を下ろした。 「くれぐれも国内に関する密談は私の前でしないことね。いつ私が裏切るかも分からないんだし」 「ご忠告ありがとうございます」 様も嫌味で返したつもりなのだろう。残念ながら李牧様は全く本気と捉えられていないようだった。様なりの気遣いであることは、この場に居る全員が理解している。 (この方が李牧様を裏切ることなどありえない。……李牧様を、居場所と言ったこの方に限って) 母国の窮地を目の当たりにし、あまつさえ防戦一方の国門を表情一つ変えずに見下ろす姿には流石に鳥肌が立った。最も荒れた咸陽への別部隊にも付き添われ、道中で空気の読まない傅抵に「今、どんな気持ちっスか?」と聞かれた際も淡々と言われた。 「私は同盟とは言え既に趙に嫁いだ人間ですもの。旦那様に従うわ」 いくらご自身の立場を理解されているとは言え冷酷ではと思ったが、その後に続けられた言葉は意外なものだった。 「それに、此処で母国が無くなろうとも帰る場所はあるじゃない」 ちらりと先陣の李牧様へ目を向けられた様からは絶対的な信頼を預けられているのだと、私にもよく伝わった。姿勢の良い背中を一瞥し、一瞬だけ表情が和らいだのを私は見逃していなかった。 「そろそろも邯鄲に戻っていいのですよ?」 李牧様の隣で土塁に目を向けていた様が振り返られた。 「邯鄲に戻っても一人じゃない、つまんない」 「よく慶舎と軍略囲碁をしていたでしょう?今ならし放題ですよ」 じとりと李牧様を睨んだ様が白湯に口をつける。唇がとがっているのは、不貞腐れているからだろうか。 「アンタ、わかってて言ってるでしょ?」 「はて? わかりませんね」と李牧様の口角が少しあがった。それを見た様が分かりやすく舌打ちを鳴らす。 私と傅抵は何が何だかわからず、お互い顔をあわせていた。 ああもう! と苛立ちを隠せない様は、おもむろに立ち上がり残った白湯を一気に飲み干した。 「おかわりを入れてくる」と大股で歩き始めたものの、数歩歩いたところで振り返って李牧様をねめつけた。 「あんたが居ないのに、私だけ邯鄲で白い眼を向けられるのなんて御免よ」 連帯責任なんだから、あんたも一緒に後ろ指を指されなさい。 そう吐き捨てると水場に消えられた。 傅抵が「まじであの人、じゃじゃ馬っスね」と不遜な言葉を投げたので脇腹を思いっきり殴った。うずくまる傅抵に苦笑していた李牧様だったが、やがてぽつりとつぶやかれた。 「そうは言っても側に居てくれる方がありがたいんですけどね」 「と、申しますと?」 「いくら慶舎が居るとは言え、万一あの王が手を出さないとも限らないですので」 湯呑に視線を落とした李牧様は「大罪人の細君とあれば抵抗するだけでどうなるかわかりませんから」と続けられた。 あの愚王の顔を思い浮かべるだけで自然と眉間に皺が寄る。確かにあの節操無しが何をしでかすかわからない。 「それに彼女がもし妃になってしまうと後々ややこしい事にもなりますし」 困ったように眉を下げる李牧様に持ち直した傅抵が言う。 「建前はともかく。ぶっちゃけ本音はどうなんっスか?」 単刀直入に尋ねる傅抵に対して「おい」と声をかけるが、傅抵は李牧様を射抜いたまま。 横目で見ていた李牧様はしばらく見つめ合った後、一度目を閉じると力なく微笑まれた。 「こんな辺境までついて来てくれたのはとても有り難いですし、欲を言えば帰って欲しくないですね」 「素直にそう言えばいいじゃないですか」 「彼女、素直ではないので」 あっけからんと言いのける李牧様に対し、傅抵は「李牧様も大概じゃないっスか?」と乾いた笑いを零す。対して李牧様は「確かに、そうかもしれないですね」と言って大きな声で笑いだされる。 ひとしきり笑い終えると、目尻を下げて穏やかな口調で呟かれた。 「彼女の隠しきれないところがいいんですよ」 様の言葉の片鱗に李牧様を思いやる意図があったのは何度も気付いていたが、李牧様から様に対する言葉を聞いたのは初めてだった。 自分の尊敬する主君だからこそ、仕える事になる奥方がまさか敵国の兵を率いる将になるとは思わなかったが、始めこそあんな形で契りを結ばれたとはいえ、互いを思い合う姿は私にとっては理想の夫婦像だと思った。 ……お互い、少し、いやかなり素直では無い気もするが。 「密談はもういいの?」 傅抵が李牧様を脇を小突きつつひやかしていると白湯を淹れて戻ってきた様がひょっこり顔を出された。 「随分楽しそうだったけど」 李牧様と傅抵をそれぞれ一瞥し、は李牧様の湯呑をするりと奪って白湯を注いだ。李牧様がお礼を述べられていることは気にもかけず、隣に腰を下ろしご自分の湯呑にも注がれる。穏やかな視線で李牧様がそのお姿をじっと見つめられていることにも気付かれていない。 「ええ、とても楽しい話題でしたよ」 私と傅抵に目配せをし、李牧様は何も言わず首を振った。先程の話は他言無用と言う事だろう。 特に興味も無さそうに様が「あ、そう」と応えられる。きっとそれすら李牧様の想像の範疇であったのだろう。作業を再開するまでの間、私達は他愛のない話に花を咲かせていた。 私と傅抵が邯鄲へ戻るまでの間、何も言わずとも李牧様の隣には様が常に控えていらっしゃった。 |