「慶舎様、あれは烽火でしょうか、山火事でしょうか?」

真昼間、一本の煙が天へと上がっていた。
此処は雁門、中華と呼ばれる七国の最北部。周囲を覆うように住まう中華の外で生きる異民族達と攻防戦を担う。
雁門からさらに北方には異民族・匈奴の侵入を知らせる烽火台が築かれており、日夜中華と異民族との境界を最前線で見張っている。
私が指した辺りには確か烽火台は無かった筈と思いつつ、匈奴との戦いとなれば一刻を争う事態となる。念のため一旦家へと戻り、書を読まれていた慶舎様へと声を掛けた。

「おそらく、あれは匈奴の葬送儀礼だ」
「ソウソウギレイ?」
「亡くなった人間を弔っている。死体を燃やしてな」

え、死体を燃やして!?
信じられない行為に思わず手に持っていた薪の束を落とした。私達が故人を悼み、丁重に埋葬をするのと同じように、異民族は火をつける事で故人を弔うと言う。

「眉間に皺が寄っているぞ」

落とした薪を拾い、煙を見上げる。どうも理解しがたいその弔い方にどうしても眉間に力が籠った。

「なんというか、信じられませんね」
「私達の価値観では」
「はい。いくら七国が未だ群雄割拠しているとは言え、元は一つの国なのである程度の常識は通用していますが……。改めてこの先は中華の外なのだなあと思いました」
「とは言え、山火事へと発展しないよう伝令を出しておく」

ほどなくして黒煙はか細くなり、いつの間にか消えていた。
先の時代に広まった教えに身体へ傷をつけない事は孝行の始まりだとある。あえて傷をつけると言う行為は不孝そのもの。学は対して無い私のような平民にとっても、その教えはある程度の常識として存在していた。だから死体であれ自ら火をつける行為に戸惑ったのだ。

しかし、いくら私の物差しでは計り知れない行動とは言え、あれは死者への弔いなのだ。あの下では誰かが死に、それを悼む人々が居たのだろう。
明日は我が身かもしれない。顎に手を添え、隣で消えた煙の出どころを予想しているであろう慶舎様を見上げた。

「お前には、苦労をかけるな」

私の視線に気づいた慶舎様は口を開いた。
どういう意味なのか分からず、ぽかんとしていると話しを続けられる。

「私の都合でこのような辺境に連れて来られたのに、お前を娶る事も出来なければ、子を成す事もないだろう」

持っていた薪を取り上げられると、玄関の直ぐ側にある置き場へと移動させながらも慶舎様は言葉を続ける。

「その上、私は将。死に場所が戦場になればお前に何も残す事が出来ない。屍はその地へと埋められ再び見える事も無ければ、首は晒されるかもしれない。ましては同じ墓で眠る事は不可能だ」

振り返った慶舎様は、じっと私を見据える。
表情を決して表に出す方では無いので、慶舎様の本音に驚きを隠せない。そこまで私はこの方に思ってもらえているなんて。その思いだけで十分だった。

「いいえ、慶舎様。私は自分の意思で貴方様に着いて行くと決めました」

慶舎様の大きな手を自分の頬へと添える。少し体温が低い、何度も私を守ってくださった大好きな手。
華奢な体つきと男の方にしては可愛らしいお顔立ちとは違い、手のひらは潰れたまめでゴツゴツとしていて小さな傷が沢山ある、なんとも男らしい手だ。

「形は残らずとも、は慶舎様に沢山のモノをいただいております。私はこの家と共に、慶舎様のお帰りをいつでも待っています」

それは辺境での束の間の安息だった。



時は流れ、慶舎様がお仕えされている李牧様が首都・邯鄲に奉じられ、私も共に首都へと居を移した。
首都に来てからは雁門の様に放牧等を行わずとも慶舎様の俸給だけで過ごせるようになっていて、家事以外何もする事が無いのが玉に瑕ではあるが、それなりに裕福な暮らしをさせてもらっていた。
慶舎様が此度の遠征に向かわれてどれぐらい経っただろうか。準備やあれそれで十日はゆうに過ぎていた。

何処にでも居る私のような一国民に早馬が来るなど滅多にない。と言うか、本来は無いはず。
物々しい甲冑姿の兵士の方が来られたのは今から数日前の事だ。雁門でカイネちゃんにこっそり教えてもらっていた騎乗がこんな時に役立つなんて誰が思っただろうか。馬も雁門から連れてきた匈奴との連戦を駆け抜けたうちの一頭だ。平地の馬より足が速い。

黒羊の地に着いたのは夜更けだった。
慶舎様の側近だった岳嬰様に呼ばれてその寝台へと近づくと、眠ったように横たわる慶舎様がいらっしゃった。頬に傷が増えているものの、そのお姿は今にも目を開いてくれそうで。
呆然とする中、いつものように大好きな手に触れる。体温を感じられないその手を頬を摺り寄せるが一向に温かくならない。何度触れても握り返さない大きな手に、わけもわからず涙が出てきた。周囲からも鼻を啜りあげる声が聞こえる。
耳鳴りがするぐらい静かな大地にすすり泣く声だけが小さく響いていた。
空が少し白くなり始めた頃、李牧様達とも合流し、夜の間に掘られた穴へ慶舎様を移された。
少しずつ土に埋もれていく慶舎様をただ呆然と見つめる事しか出来なかった。
此処に来るまで馬に乗りながら沢山泣いた。この報せが嘘であれと何度も願った。
早馬が届いてからもう数日経っているのにまったく痛んでいない身体を見るに、おそらく丁重に保存してくださっていたのだろう。
そして早馬を私にも送ってくださった李牧様にもどれほど感謝をしたらいいのかわからない。おかげで最期にもう一度お顔を見る事が出来た。

私に何も残す事が出来ず、死に顔すら見せられないと言っていた慶舎様。
こうして貴方様の死を悼んで下さる方がこんなにいらっしゃると最期に知れただけでも私にとってはとても喜ばしい事なのだ。

「私に死に顔も見せられず、同じ墓に眠る事も、嫁に娶る事も出来ないと嘆いておられましたが。
 欠損一つないお体と眠るようなお顔を見る事が出来た……。慶舎様のご人望が、私を今此処に立たせているのですよ」

その日、生涯で唯一愛した人は雁門から遠く離れた丘の上に眠った。


甘霖、誰が為に降らず
―今、都合よく雨が降ってくれたのならば、わたくしの悲しみも一緒に流れてくれるのでしょうか