「李牧ってなんか見てるとイライラするのよね。」目の前の彼女は菓子に手を伸ばしながらそう言った。仮にもその従者の目の前である。
怒りを通り超えてポカンとしているで私には「カイネちゃん怒らないでェ?ほら、お菓子あげるからー」とヘラヘラと笑っている。どういうことだ!ていうか呼び捨てだぞ!
確かにはいつも李牧様と逢うと必ずと言っていいほど口が悪くなる。というか、いやみたらしくなる。李牧様は気にしておられないが李牧様の従者でありと仲が良い私はいつも板ばさみでヒヤヒヤしている。
「なんて言うか、カイネちゃんが慕ってるし、今趙があるのはあの方のおかげってわかっているんだけどねぇ…」と言ったの表情は少し曇っていた。彼女はしがない文官(本人曰く)らしいが、決して頭は悪いわけではなく、むしろよく言い負かしているのを宮殿でも見かける。きっとは李牧様に対してイライラしている理由をわかっているんだと思う。今の表情を見て核心を得た。彼女はそれをわかっていて私に黙っているのだ。どうしようも私には出来ない。
もっと頼って欲しいとかそういう単調な感情ではなく、の考えまで達せ無い自分に拳に力が篭った。

「もっとねぇ、馬鹿な女に生まれたかったわ。」ふぅ、と息を吐いたを見ると何処か遠い目をしていた。「もっと馬鹿な女だったら、こうやって此処に居ることも無かったし可愛く振舞ったり、女の子らしくいられたのに。」「もう男相手に反論するなんてへっちゃらすぎて女らしく振舞うことを忘れたわぁ。」カイネちゃんみたいに見た目が可愛かったら反論しても可愛かっただろうになあ。背が低いがチラリと私を見上げた。
は頭もいいし、男と張り合えるって本当に凄いことだ!この宮殿で女が後宮以外で働くって稀だし、それだけは才能に溢れてるんだからそんなに卑下するな!」
の双肩を掴んで言い放った。はごく稀に極端に自分を卑下する癖があった。これを言うのも初めてではない。彼女は宮殿という本来女が足を踏み入れることが出来ない場所で重い責任を背負って働いている。勿論私もそうだが、私の場合は李牧様という大きな後ろ盾がある。は聞けば家も大した出ではなく、本当に才能だけで選ばれたそうだ。
しがない文官と自称しているのも女故に出世が憚れることと、自分への卑下の二つの意味が含まれているのではないだろうか、と以前李牧様がおっしゃっていた。
にしかない才能がある、そこらの馬鹿女になりたいとか言うな!」「私はだからが好きなんだ!」
剣幕な表情で真摯に彼女と向かい合う私には目を見開いてポカンとしていた。今まで何回も同じようなことを繰り返したけれど、此処まで言ったことはなかった。多分、それに驚いているんだと思う。
私はが好きだ、だからこそ自分を卑下して欲しくないし、自分を誇りに思って欲しい。
には笑顔の方が似合う、悲しい顔はしてほしくない。
カイネちゃん、と私の名前を呼んで口を開こうとしたを遮る声。
背後から聞こえたその声に私は振り返り、は声の持ち主を見て固まっていた。

「そんなご自分を卑下にして、私の知っている殿らしくありませんね。」羽扇を扇ぐ手を止めると視線を硬直するにうつした我が主、李牧様。
普段と同じく飄々とした立ち居振る舞いで、視線はを捉えたままうっすらと笑みを浮かべた李牧様はこちらに足を進めた。
殿はカイネが言ったとおりすばらしい才能を持った女性ですよ。」「いつも言い負かされている私が言うのですから。」目を細めてと笑う李牧様を見ての方を向けばは先ほどの弱弱しい表情から次第に、表情が色づき始めた。
フッと鼻で笑うと私の手を肩からするりと下ろし、「随分嫌みったらしい慰めね?」と挑発的に李牧様に言った。いつものだ。彼女はそのまま私の前を通り過ぎ、李牧様に向かい合う形になる。
「李牧様流の慰め方なのかしらぁ?」と背の低い彼女が真下から見上げる彼女に李牧様は笑顔で答える。「ええ、何か気負いされていたようでしたので。」少々手荒かったでしょうか?そう答える李牧様に一瞬が目を見開いた。「そういうところがイライラするのよ…」「どうせ貴方にはお見通しなのでしょう?」挑発的に笑っていたのには突然鋭い目付きで李牧様を睨んだ。何も言わずにニコリと笑っている李牧様と相反している。まさに一触即発の状態であった。
「…まあ、いいわ。ありがとうございますわ、しがない文官をわざわざ労ってくださったお優しい宰相様。」目を伏せて自嘲気味に小さく笑ったは李牧様の横を通りすぎようとした。
が、それは李牧様によって遮られた。去り際に掴まれた腕に驚いたは慌てて李牧様を見ると睨みつけて何かを言おうとした。しかしそれも李牧様は遮って「先ほどのしおらしい殿も可愛かったですが、やはりいつも通りの殿の方が可愛らしいですよ。」と告げた。 あまりに唐突な言葉に私ももポカンとした顔で李牧様を見つめたが、は言葉の意味を理解したのか口をパクパクと動かして赤面した。私も初めて見るぐらいうろたえるの姿にとても満足しているだろう我が主は笑みを浮かべてを見つめていた。
「だ、だから!そういうところがイライラするって言ってるのよ!この軟派宰相が!!」ブンッと李牧様の腕を無理矢理振り払ったは顔を赤らめたままズンズンと回廊の向こうへと消えていった。
その後姿を愛しげに見つめる我が主を見てようやく二人の言い合いの理由を理解した私が頭を抱えたのは勿論のことであった。

泳 が さ れ る 魚


「あのー、李牧様?」「なんですか?カイネ。」笑顔を崩さず目線をに向けたままの李牧様に少し呆れ顔になる。この人は毎回こうしてわざとを激情させては楽しんでいたのだ。「のこと、どう思っているんですか?」ようやくこちらを向いた李牧様は「とても可愛らしい方だと思いますよ。」とまた目を細めた。
が自分を卑下する癖も、が李牧様をどう思っていたかも全てお見通しで、更に李牧様はたった一言で落ち込んでいたを立ち直らせた。尊敬する反面、自分には出来なかったこと故に悔しい気持ちも少しあった。
「…あまり、いじめないでくださいね?」「さあ、どうでしょうか?」羽扇で口元を隠して笑う李牧様を見て、お互い素直になってはやく引っ付いてくれとため息が漏れた。