「あらお帰り、李牧。」羽扇で口元を隠す公主は明らかに笑っていた。
「うまくいったようねェ、さすがねェ。」普段見ることの無い公主にカイネ以下は目を剥いていた。
第二公主である様はおてんばが過ぎるようで、よく後宮を抜け出しては私の元に来ることが多かった。 それはただ年が近いから(安に年が近いと言っても十近く離れている)と言うだけではなく、戦に興味があるようで兵法や過去の戦について訊ねられることが多かった。
現在私が主に戦場で用いている羽扇も実は公主から受け賜ったものであった。
「此度はおめでとォ、後で色々聞かせていただくわァ。」フフフと笑いながら踵を返す公主に胸元で両手を合わせて頭を垂れた。靴音が聞こえなくなるとようやく顔を上げる。ふぅと一息つけばカイネが分けわからないと声をかけてきた。

秦趙同盟の締結を王に報告後に謁見の間を出た大回廊を少し過ぎた人気が少ない場所に彼女は居た。顔を見せないように巻かれた布越しに目が合う。
互いに適度な間を取りながらも私室へと移動し、公主は布をばさりと落とした。
「まったく、昼間はどうなるかと思いましたよ。」布を丁寧に畳んでいる彼女は目をこちらに向けることなく答えた。「あらァ。李牧だったらそういう噂が出たっていいんじゃないのォ?フフフ。」小さく畳まれた布は定位置にばさりと落とされ、代わりに公主の手には丸められたままの地図があった。
「さァ、教えて頂戴?どうやって秦の怪鳥・王騎は堕ちたのかしらァ?」
彼女はこうやって戦が終わるたびに私の戦略・兵法を聞きに来る。男女の営みは全くといってそこには無い。様はその場所で法をを考え戦を動かし、結果を私に求めてくる。まるで軍師の弟子を持った気分である。
勿論彼女が今日私を訊ねてくることは想定していたし、王騎の死も伝わっていることは想定済みであった。しかし公主である様には詳しくは伝わることがなかったはずである。
つまり彼女は自ら戦況や結果を聞く程に戦争にご執心なのだ。

「フフフ、さすがねェ。秦との戦争前に匈奴を蹂躙しただけはあるわァ。」「守りに徹しすぎて一時は職を失っていたとは思えない功績ねェ、李牧?」まァ、私はそういうところも買っているのだけれどォ。フフフ、と羽扇を扇ぎながら私を見つめる彼女。
「ありがたきお言葉です。」「あらァ、そんなに畏まらなくていいのよォ?私が貴方の戦術に大変興味を持っていることは父上も知っておられるしィ。」やましいことも何もないでしょうゥ?貴方は。
「それではまるで様にはやましいことがあられるように聞こえますが?」「その通りだもの。」それまでは朗らかな目をしていた彼女の瞳がギラリと光る。それは現王にも無いような獰猛なものであった。
「私はねェ、確かに戦術や戦にとても興味があって貴方にこうやって教えを請うているわァ。」「でも半分は貴方自身に惹かれているから、貴方の考える世界が見たいのよォ。」
「私はいつこの趙から別の国に嫁ぐことになるかもわからない不安定な存在。」「他の列国で戦況を聞いていても貴方がどういう進め方をするか理解していればどう転がるかわかるでしょォ?」「例えわかったとしても私にはそれをどうこうする手はないからァ?死ぬ時は死ぬでしょうけどォ。」
「私は死ぬなら李牧、貴方の戦術で死にたいわァ。」フフフ。羽扇で口元を隠して笑う彼女は確かに艶かしい程に女であった。

「まさか、そんな風に様がお考えだとは思いもしませんでした。」頭を垂れて畏まり、ちらりと顔を上げると彼女は眉を顰めていた。「そんなことはないはずよォ?貴方はきっと、わかっていた筈。」「いいえ、私めが様の眼中にあったことは全くの想定外です。」
これは嘘ではなく事実であった。全く持ってこの公主様は私の想像を遥に超えていたのだ。戦好きで少し狂気じみた様にしか私には見えていなかったのだ。それがまさか私に気があったでなくご自分の立場をお考えになられた結果この現状があったのだ。
彼女はとても頭の回転が速く理性的な考えを持っていた、読みを誤らせるほどに。
「まさに、女性の心は海よりも深いとはこのことでございますね。」「名だたる将の数十手先は見えても、様の手は全く見えておりませんでした。」貴女様にしてやられました。と笑う私を見て、様は豆鉄砲を食らったような表情を一瞬見せた。しかし直ぐにいつもの飄々とした笑みに戻った。
「答えなんて聞くつもりはないわァ。ただ貴方は私が嫁ぐその日まで戦法を説きなさい。」左手に持っていた羽扇を帯に挿し、両手を自由にした彼女は地図の上で繰り広げられていた王騎最期の瞬間に王手をかけた。
それは彼女の一手を読み違えていた私が陥落した様子を描いていた。


穢れない一手、