「おめでとうございます、政さま。」
頭を垂れ、両手を前に組む目の前の女は涙を浮かべながら笑顔で言った。 その女と初めて出会ったのは俺が趙から秦に来て間もない頃だった。
左腕の傷を見て自分を省みずに着ていた衣の袖を破り止血した少女を奇妙な奴だと思ったあの日から十年近く経つ。
紫夏によって取り戻した五感は、その少女ありきで今日に至っていると言い切れるほどに女と過ごした時間は長かった。

女は俺よりも3つ年上で、ある副官の娘であった。将軍と副官の背中を見て育った女は年を重ねるうちに衛兵より勇ましくなり、戦場で武人として功をあげていた。 自然と宮中に居ることが少なくなったがそれでも咸陽に戻ってくるたびに俺に謁見を求め、他愛もない話を日が昇るまで話し続けた。
「政さま」と呼ばれるごくわずかな時間。その時だけは王ではなく、一人の男としてそこに存在できた気がした。 王弟反乱の際も何処からともなく将軍と共に現れ、風のように去った。反乱が起きてしばらく見なかったその姿は知らぬ間に怪鳥の群で大層な働きを見せていた。
その後、将軍を喪った女は光を灯さなくなった。
それ程までに将軍は女にとって全てだったのである、副官である父親よりも、何よりも。
女を直轄の臣下に選んだのはそれからすぐの事で、戦場に赴かなくなった女に新たな居場所を与えたのは他でもない自分であった。
新たな輝きを放つ女に安堵し、自分がその輝きを導けたことに大層心が躍った。女は自分にとって、極めて特別な存在であった。しかしそれはつかの間の優越感。女は、武人なのだ。

世継ぎを残すこと。これは国にとって重要なことであり、世継ぎが生まれずに滅んだ国は数知れない。ある意味王の最大の役目とも言える。
後宮の女官が日ごと訪れ、夜を共にする。望まぬ行為であったとしても。 しばらくして女とは別の、共に居て心地の良い女官と出会った。女と過ごす時間にとても近い心地よさに安心し、心を許した。
秦国内が騒々しい中、女官が世継ぎを懐妊し、二世への期待も高まる。

しかし、何故だろうか。信頼する臣下を集め、向の懐妊を伝えると空虚になったのは。

目の前で涙を流して喜ぶ臣下に紅一点。女は居た。
そして涙を浮かべて喜ぶ姿を見て悟る。「俺はの眼中に居なかったのだ」と。
には男はただ一人、自らの将軍である王騎しかうつっていなかったのだ。
何処かでそれを感じていたのかもしれない。やっぱり、と思う胸中で気付く。
空虚になった原因は、自分を3つ下の「男」と見ていなかったを目の当たりにしたからだ。それに今となって気付く愚かな自分に奥歯を小さく鳴らす。
もしあの時が後宮に籍を置くことになっていれば、の思いなど陳腐なものに過ぎず後宮体制の中に消えて自分は少しは浮かばれたのではないかと下らない思考が巡る。
「政さま?」鈴のような女の声がする。この秦で俺を政と呼ぶのはを含む片手で足りる程の人間しか居ない。今目の前に居るのは間違いなくだけだった。
「秦は、政さまと政さまの世継ぎによって未来永劫安泰でしょう。」とてもうれしゅうございます。袖で目元を拭おうとするの手を制し、自らの親指の腹でそっと拭う。
「その為にはまず、国内でのいざこざをおさめなければいけませんね。」
煌々と女の瞳に光が宿る。その目には宮中があっという間に燃え尽きるだろう炎が見えた。
「政さまの安寧と秦の繁栄の為に、いずれ決心がつけば私もまた戦場に赴きます。」
「政さま、必ず天下を統一いたしましょう。」

その女の瞳を見て、此処に居ればよいと誰が言えるだろうか。
その一言で、女の目は水を得た魚のように輝きを放った。
それは亡きただ一人の将軍を思う女の気持ちが現れ。
女は、愛した将軍の面影を求め、戦場を舞う怪鳥で居ることを欲しているのだ。


嗚呼、

感情と肉体を切り離すことには慣れていたはずなのに、だけは切り離せない。



マルクス、エレジー。


それは中原を統一しただけでなく、中華全土を統一したある皇帝の若かりし頃に届かなかった思い。