時刻は午前零時。 男は一人、セーフハウスの一室で酒を煽っていた。 来月には引き払うこのセーフハウスで一夜を過ごすのも、あと何日あるかわからない。 男は、数時間後には自らの結婚式が控えている。 しかしそのイベントを目の前に、眠る事が出来なかった。 「俺、明日結婚する」 傾けたグラスの琥珀色が揺れる。 金髪碧眼の男にそれはよく似合っていた。 それ故に畳の敷かれた室内に於いて男は、妙に浮世だっている。 「ははっ、羨ましいだろ」 繁華街から離れた室内は外界と遮断されているようで、カランと音を立てた氷が男に相槌を打ったようにすら思えた。 彼は、かつての友に思いを寄せていた。 「お前には前に言ったかもしれないが、警察官になって直ぐに出会った首相の孫さ」 語りかけるように独り言を話す男の脳裏には一人の男性。 幼馴染で、同じ警察官だったつり目の彼。 「見た目は普通だぞ?萩原が見たら可愛いって言うかもしれんが」 酔いが回って来たのか、いつもより上機嫌に話す男は珍しく口許に優しげな弧を描いている。 電源をつけたまま放置していたノートパソコンを片手で器用に動かすと、鍵のかかったフォルダから開かれた一枚の写真。 男はグラスの淵を指先で持った手を頬に押し付け、過去を映した画面を眺めていた。 「伊達、婚約してたんだってな」 幼馴染と肩を組む心底人の好さそうながたいの良い男。 画面越しに、同期の中でもムードメーカーだった男が顔をくしゃりと潰して笑う姿に胸が痛む。 「松田も。良い女性が居たらしいじゃないか」 今やその女性も、誰かさんの後輩といい雰囲気らしいがな。 男は心の中でざまあみろと悪態をついた。 「……先に幸せになって悪いな」 そう言った男の顔は、幸せになる表情では無かった。 男の門出を祝う親しい人は居ない。それでも彼は掴もうとしたから、明日が待っているのだ。 それでも、もし、まだ彼らが生きていたとしたら。 誰かの結婚式に参列していたかもしれないし、もしかしたら彼女と共に招待されていたかもしれない。 同期で出し物をしたり、新郎新婦にちょっかいをかけに行って大きな口を開けて笑い合えていたかもしれない。 勿論男は、考えるだけ無駄だとわかっている。分かっていても、式が前日となった今、自分より”もし”が近かったであろう友人達の事が脳裏を過ぎる。 「お前らに散々早死にするなよって言われてた俺が、一番長生きしてるぞ」 瞼を閉じると思い出す、楽しかった日々。沢山の人達と出会い、別れた。 過去を振り返るのは簡単だった。楽しい事だけ思い出せる。 少しだけ、後ろを振り返ろうとした。 しかしそれをかき消す一筋の光が差しこんだ。 いつの間にか日が昇るのが早くなったものだ、男はノートパソコンの時計を見ると自嘲した。 光が差しこんだ時、思い出したのは数時間後に会う彼女。そういえば彼女と再会する前にもこんな事があったな。 気持ちが軽くなったらしい男には、先ほどまでの翳りは見えない。 もう振り返る事はしない。彼は未来を掴んだのだ。 「馬鹿野郎共が」 男は小さく笑いながら呟いた。 短い時間ではあるが仮眠を取るべく、男は勢いよくノートパソコンを閉じた。 |