夕方までに全ての処理を終わらせる必要があったため、朝から報告等々に追われていた。 こうして警察庁からポアロに向かうのも今日が最後か。いつも通り、付近にある駐車場に愛車を停めるとサイドブレーキをかけた。 まだ集合までは少し時間があるので、エンジンを切ってハンドルにもたれかかった。 例の組織が壊滅し、安室透・バーボンとして生活をする必要が無くなってから数週間が経つ。既にポアロに退職願を出し、毛利探偵事務所にも挨拶は済ませていた。 あの頭の切れる小学生には「お姉さんには言ったの?」と聞かれてしまったが、自分で言うからと内緒にしておくよう伝えていた。尤も、前日まで言うつもりは無かったわけだが。 思い出すのは昨日の出来事。我ながら随分と遠回りをしたプロポーズだったと思う。 昨日は珍しく全休。久しぶりに何もない一日だったが、朝から指輪を買いに行き、彼女とポアロで待ち合わせをした。 シフト最終日の前日、安室の最期を告げると共にプロポーズをする。あらかじめ決めていたので準備は万全だったが、柄にもなくポアロで彼女を見た時は手の震えを感じた。拳銃を持つ手は震えないのにな。 その一言を告げる事によって彼女まで自分の手からすり抜けてしまうのではないか。少なからずそんな不安は抱いていた。……まさか「貴方を幸せにできません」なんて返事をされるとは思いもしなかったが。 答えられて直ぐはショックのあまり反応できなかったが、冷静になれば普通は逆だろうが。 その上、遺産目当てだの言いたい放題言いやがって。アイツは時々想像以上に突拍子もない事を言う。 その想像の斜め上を行く彼女の答えに、何度救われたか。それは一番自身が分かっている。 親しい人達はいつも俺を置いていく。故に本当は彼女の事を思えば何も言わずに去るべきだったのかもしれない。 感情をコントロールするのは上手くなったはずなのに、青い自分の想いは押しとどめる事は出来なかった。 無くさないよう、胸ポケットにいれていた指輪を取り出し、ビルの窓に反射した夕焼けをくぐらせる。 この小さな銀色一つで彼女の残りの人生を縛ってしまっていいのか。その答えはきっと永久に出ないだろう。 環の中で燃える太陽は象徴とする自国の国旗を彷彿とさせた。 昨日彼女に告げた通り、あの時に出会ってなかったら自分の一生は半端なもので終わっていたかもしれない。 ――日出ずる国・日本。 自らが生まれ、生き、そして彼女と出会った場所。 幼い頃から現在まで、沢山の出会いと別れを繰り返した場所。 ひょんな事で出会ったと言う、出生以外は平凡な女子大生。 偶然、彼女が時の総理大臣の孫娘で、 偶然、彼女の護衛に入る事になり、 偶然、事件に巻き込まれて知り合った。 共に過ごした期間も大して長くはない。それでもあの数週間は僕の――俺の愛国観を変えるには十分だった。 知識として、ある程度完成形であった国を守ると言う信念。 国を守る事が、人を守る。 人を守る事が、国を守る。 初めて受け持った人命が関わる程大きな事件で、身をもって知った。頭では理解していても現実はその通りにはいかない。 無事、守り切れるのか。 一瞬も気を抜けないあの空気感。これが人を守る、しいては国を守ると言う重圧なのか。 まだ多感だった新人警官の俺はしばらく眠れなかったのをよく覚えている。事件が収束してもなお、不安は収まらないのだ。 彼女が今も何処かで安全に生活が出来るように。 もう不安な思いを抱えずに生きれるように。 机上の信念を基に、不変の盤石が築かれた。 沢山、心を痛める事件と出会い、その数だけ積み重なっていく命の重みを知った。 この国で生きる人々が不安と背中合わせで生きている事を、身をもって知った。 そして巡り合う事なく散った人々の存在が、また新しい礎を作った。 この国に生きる人達が不安な思いをせずに生きていける未来の為に。 彼らが当たり前に平和を感じる未来の為に。 少しずつ、机上の信念は現実の信念へと成長した。 今、命を投げ出す事すら厭わない程、国を尊ぶ事が出来るのは、あの盤石無しでは考えられない。 あの平々凡々な女子大生を守りぬいた事から、自らが信じる愛国観は始まった。 たった数週間。 想像以上の存在感で、彼女は俺の心に爪痕を残した。 彼女には昨日、指輪はつけて行かないと言ったが、そんなつもりは最初から無かった。指輪をはめて来るであろう彼女は、どんな反応を見せてくれるのだろうか。 あの少年辺りには惚気かと嫌味を言われるかもしれないが、最期ぐらい外野に見せつけてもいいだろう。どうせ今日で安室透は死ぬ。 「そう、降谷零の最も近しい人間、安室透が」 この先、この男以上に近しい人間が出ない。そんな男が今日死ぬんだ。彼こそ僕が見送る最後の身内で、明日からは彼女が一番近しい人になる。 そう考えるとらしくもないが胸元に何かがこみ上げた。 環の中にあった太陽はいつの間にか随分と沈んでいて、時期に日が沈み、今日と言う日が終わりを迎える。 時間を確認し、指輪を左薬指にはめると、ようやくポアロへと向かう。彼女が求めた王子様の最後の晩餐だ。 集合時間ぴったり。ポアロ最後のシフト、もといお別れ会が始まろうとしていた。 クローズが掲げられたポアロの扉をくぐると、クラッカーの音に出迎えられた。 店長や梓さんをはじめ、毛利探偵にコナン君、蘭さんと園子さん達女子高生や少年探偵団のメンバー、そして常連のお客さんとポアロ店内は満員御礼だ。 入店して早々、常連の皆さんに囲まれてしまったが、店長や少年探偵団のおかげでなんとかカウンター付近まで辿り着けた。 この人数を収容する為に梓さん達が用意してくれたのか、店内は立食形式になっていて椅子は全て片づけられていた。 代わる代わるやってくるポアロの常連達が「辞めるの寂しい」や「辞めないで」と餞別の言葉を送る。 安室透として笑顔を作り、一つ一つの言葉に丁寧に答えていった。 しばらくしてようやくひと段落ついた頃、梓さんがキョロキョロと周りと気にしながら耳打ちをしてきた。 「安室さん、昨日ちゃんとさんには伝えられました?」 「……ええ、今日もこの後ポアロに来られますよ」 よかったぁ、と梓さんは胸をなでおろす。 「御心配をおかけしてすみません」と言えば、「本当ですよ!」と可愛らしく怒られてしまった。 そしてタイミングよく、蘭さん、園子さん、そしてコナン君達少年探偵団の面々がやって来た。 「やっと安室さんに近づけた!」 園子さんから今までの労いの言葉と餞別の品をいただいた。続けて蘭さんからも「お疲れ様でした」と小さい紙袋を貰った。 既に両手に抱えきれない程の餞別を貰っており、渡される度にカウンターに置かせてもらっていたが、そろそろ限界を感じる。地面に置くのも憚れるのでバックヤードに持っていくべきか。そもそも、これだけの量になると車のトランクに詰めて持って帰れるのか。 コナン君も片方の口角だけを上げてひきつった笑みを浮かべており、同じ事を考えていたようだった。 するとこの頭のよく切れる少年が、カウンターから視線を少し下げた場所を見て珍しく驚いた表情を見せた。 「あれれ?安室さん、その左手……」 わざとなのか、多分わざとだろう。 いつもより少し大きめの声で左手を指さす。決して広くはない店内に少年の声が反響し、その場に居た人々が一斉に自分の左手を注目した。逆によくさっきまで誰も気付かなかったな、とも言える。 ようやく気付かれた左手を顔の近くまで持ってくると一瞬にして喧騒が消えた。空調の音や息を呑み込む音、誰かの呼吸音すら聞こえる。 「えええええ!?」 園子さんの声をきっかけに店内がざわつく。 あまり目立つ事は立場上したくはないが、店内の反応に得体のしれない優越感を感じる。 ポーカーフェイスは得意な筈だが、今は口角が緩むのを抑えるのに必死だ。 そんなに嬉しいのか降谷零。 彼女が自分の物であると隠さずに言える事が。 彼女と歩む未来を……堂々と、胸を張って、言える事が。 「安室さん、ご結婚されてたんですか?」 おそるおそる蘭さんが尋ねた。 気付けばまた囲まれていて、目の前に居る、蘭さん達と梓さん、コナン君を筆頭に数十個の目が自分に向けられる。 聴衆の勢いに少し呆気にとられた。ちょっとした悪戯心のつもりだったが、此処まで興味を持たれるとは思わなかった。 「あ、いえ、まだ結婚と言う訳では……」 「まだ!?」 「実は昨日、プロポーズをしまして」 「昨日?それって……」 店内の常連代表と言わんばかりに園子さんが食いかかってくる。 たまに女性は普段とは異なる迫力を見せるから恐ろしい。思わず一歩下がってしまった。 梓さんが”昨日”と言う単語に首を傾げているとドアベルが来店を知らせる。 「こんばんはー」 と、予想通りの人物が立っていた。 店内の視線が一斉にそちらを向く。扉の前に居た彼女はその勢いに肩を跳ねさせた。 「さん!タイミングよすぎ!」 園子さんがそう言うと何が起きているのか全く理解できていない彼女が周囲を見渡す。 「姉ちゃんも左手に指輪つけてんぞ!」 「ほんとだー!」 「もしかして安室さんがプロポーズした相手って……」 少年探偵団のメンバー達が彼女の側に寄り、掴んだ左手をまじまじと見つめる。 まだ状況が把握できてなかった彼女は「え」を何度か連呼した後、ようやく何かに気付いたらしく勢いよく顔を上げ、まっすぐこちらを見た。予想通りの驚きっぷりに、彼女は見ていて飽きないと改めて思う。 安室透らしく微笑みながら左手を挙げると途端に顔を真っ赤にした。 「え、あ、き、昨日はつけて来ないって言ってた……!」 周りの事は見えていないのか、ビシッと音がしそうなぐらい勢いよく指さした。 置いて行かれていたギャラリー達が我に返り、一人、また一人と悲鳴や嗚咽が聞こえ始める。 阿鼻叫喚とはまさにこう言う事を指すのだと思う。 「すみません、つけて行くと言えば絶対につけてきてくれないと思ったので」 笑みは崩さずに申し訳ない様子を取り繕う。ゆっくり彼女の方へ歩み寄る。 「いや、その通りですけど!?」 目の前に立ったところで動揺を隠せない彼女は紅潮させた顔を両手で覆ってしまった。照明に反射して光る指輪がより存在感を増している。 顔を覆う事によって指輪が見えやすくなった事には気付いていないらしい。 その後、婚約祝いとして改めてパーティーが始まった。げっそりとしていた彼女も、次第に梓さんや蘭さん達と楽しそうに話している姿が見られた。 一足先に帰った少年探偵団達を店先まで送っていたり、園子さんや毛利さん達を見送ったりとなんだかんだで時間は過ぎていく。 その隣で始終自分が寄り添える事に今までにない感慨深さを感じた。 お開きになったのは日付が変わる少し前だった。正確には九時頃にはお別れ会自体は終わっていたのだが、その後、店長と梓さん、彼女の四人で後片付けをしていた。 手伝わなくていいと言われたが、明日も通常営業なのにこの店内では二人に負担がかかりすぎている。彼女も同意見だったらしく最初で最後の四人で片付けと閉め作業を行った。 片付けながらも梓さんと彼女は話をしているのが聞こえていた。昨日からの流れを知っている梓さんからの言及には強く出られないのか、時折言葉を詰まらせながらも全ての質問に対して答えている彼女はけなげだ。 そんな立場に追いやったのは他でもない、自分だが。 たまに睨むような視線を向けられていたのは気のせいでは無いだろう。 「安室さん、短い間でしたがお疲れ様でした! ちゃんとさんを送ってくださいね!」 最後まで手伝うつもりだったが、後は閉めだけなのでお先にどうぞと言われ、梓さんと店長に見送られて一足先に彼女と共にポアロを出る。 ポアロのドアが閉まり、二人が見えなくなったところで大きなため息が隣から聞こえた。 「お疲れ様です」 「……誰のせいですか」 さあ、誰でしょう。笑って誤魔化すとまた彼女はため息をついた。 再会してから、彼女はあの刺さるような視線を普段から浴び慣れていたはずだが、流石に今日の全方位から突き刺すようなあの敵意は可哀そうだったかもしれない。 自分はもうポアロに行く事は無いかもしれないが彼女は違う。 また毛利親子や園子さん、梓さんに会いに行くかもしれない。逆恨みなんて危ない目にあう事は無いと思いたいが何か策は考えておくに越した事はない。 思案を巡らせている中、ふと腕時計を見るとあと三分で今日が終わる事に気付く。 あと三分で、安室透が此の世から消える。 愛車のロックを解除し、助手席へと促す。乗り込むところを確認すると、先程のお別れ会で渡された餞別が入った大きな紙袋をトランクに入れる。 「あと三分」 運転席の扉を開けながら言う。 シートベルトを締めていた彼女が「え?」と聞き直した。 「安室透が居なくなるまでの時間ですよ」 シートベルトに手を掛けると助手席を横目で見る。 彼女は膝に乗せた鞄の持ち手を強く握っていた。 「私、安室さんの事嫌いじゃなかったですよ。 そりゃ最初はめちゃくちゃ驚きましたけど。私の描いた理想の王子様……それ以上でした。 えっと、あー、あと一分切ってる……。えっと、えっと……」 大きく息を吸い込み、真っ直ぐと俺を見つめる。 が慈しむようにゆっくりと口を開いた。 「安室さん、あの時も今も守ってくれてありがとう」 優しく微笑む姿に目が離せない。この表情を引き出したのが安室透である事すら、沸々と嫉妬を感じる。 今日は平常心を保つのが難しい。 自分でも気付かなかった独占欲が漏れ出ている気がする。昨日の今日で気が緩んでいないか、降谷零。 ハンドルに手を掛けたまま動かない俺に「え、安室さん?」と声をかける。我に返って顔を逸らす。右手で顔を覆うも隠しきれていない、絶対に今顔が赤い。 「……反則だろ」 「え、え?」 左手をに伸ばし、くしゃくしゃと頭を撫でる。 一生懸命の照れ隠しのつもりだが、想像以上に彼女も慌てており、何度見ても飽きない。 「もう日付変わった。 俺の前でも安室透の話はもう許さない」 左手を彼女から離すと左手に顎を乗せてハンドルにもたれかかる。 髪の毛を両手で直す彼女を横目に微笑むと、目が合って一瞬固まった。おずおずと赤らめた顔を逸らしつつ「心狭すぎません?」と小さな声で呟いた。 「それはお前の方がよく知っていると思うが?」 「……そ、そうかも?」 ほぼ降谷零のままの自分と、疑似とは言え一度は恋人同士と言う仲になっていたのだ。 若かりし降谷零は彼女曰く「鬼」と呼ばれていただけあって、さぞかし良い性格をしていたのだろう。今もかもしれないが。 「零さん」 未だ顔が赤いままの彼女が小さく呟いた。 紛れもない自分の名前だ。まだ言い慣れていないのか声が少し震えている。 滅多に呼ばれる事がない名前をから紡がれるのは擽ったい。何せ、俺を零と呼ぶような人間はもうほとんど居ない。 だからこそ、何度でも、何度でも呼んでほしい。 いつの間にかがらんどうになって居た降谷零の空白を埋めてほしい。 エンジンを回し、サイドブレーキを上げる。ギアを握り、もう一度横目で助手席を見ると目が合った。 「これからも降谷零をよろしくな、」 また会えたらよろしく、それが叶う日が来るなんて。 今こうして助手席にが居る。しかも今日から一番近くで寄り添う事ができる。そんな日常を大切にしていきたい。 ――俺の隣にが居る事が、当たり前になる明日を。 |