とある女の人生観

一体、何度目になるのか。急にポアロに来てほしいという安室透の連絡にもすっかり慣れてしまった。
退勤後まっすぐ向かったポアロの店内は、夕方のちょっとした混雑を迎えていて、またコーヒー一杯で長居する可能性もあるので入るのが少し憚れる。
さて、どうしようと考えていたら梓ちゃんとガラス越しで目が合い、手招きされるままに店内へと足を進めた。

「安室さん、今日はお休みですよ?」

呼び出されたにも関わらず安室透の姿は其処に無かった。しかも休みと来た。どういうことだ。
仕事終わりになぜ私は帰り道を真逆の喫茶店に来ているのだ。
とりあえずコーヒーを注文しカウンター席に座ると、あの男からの連絡をもう一度確認するためにスマホを取り出した。 間違いない、やはり今日だ。
何度スマホを確認しても、今日仕事終わりにポアロに来てほしいという内容にしか読み取れない。
水を持ってきてくれた梓ちゃんに見せても「ほんとだ」と首を傾げる。
コップとおしぼりを受け取り、お礼を言うとトレーで口許を隠した梓ちゃんが、

「というかさんと安室さんって結構連絡マメにとってるんですね!」

と、にんまり笑みを浮かべた。
別に大した話もしていないし、会話内容をスワイプして遡ってみるが「いや、大体あの人からの呼び出しなんだけど」としか言いようのない履歴しかなかった。
多忙男である安室透に私と下らないメールなんてする暇ないでしょ、とは口が裂けても言えない。
それなりに溜まっていたログの日付は、確かに随分古くなっていた。
もう、 そんなに経ったのか。彼と再会してから。

今生で再会するとは思っても居なかった初恋の男性と運命的な再会をした、と言えばとっても響きが良いが実際は嘘にウソを塗り重ねた過去ばかりで、付き合っていた頃の話を聞かれると未だに良心が痛む。

「なんだかんだ言ってもさんも安室さんの事、嫌いじゃないですよね」

ぼーっと履歴の日付を眺めていると、コーヒーを淹れていた梓ちゃんが横目で私を見ていた。
今日は安室透が居ないからか、梓ちゃん目当てのお客さんばかりで視線を気にせず居られるから良いけれども、そういう話題はあんまりしてほしくないのが本心だ。
安室透と言う人物の一般的な見解と、私の中での安室透は想像以上に溝がある。しかもそれを口に出す事が出来ないのでモヤモヤだけが心の中で燻る。
うまく言葉が言い返せずにカウンターの木目を凝視していると、コーヒーが視界に入った。

「少しは素直になった方がいいんじゃないですか? 安室さん、明日までですし」

梓ちゃんの言葉に頭を勢いよくあげた。

「それ、どういう事?」

震える唇で尋ねると梓ちゃんがしまったと言う表情を見せた。何がまずいのか、いや、なんとなく理解しているから聞かなくてもわかる。

「安室さん、ポアロで働くの明日までなんです」

わかっていた事じゃないか、この男の正体を。
安室透と言う男は任務が終わったら消える。

逆に言うと、長期の捜査が終わったと言う事は彼が本当の名前を堂々と名乗れる日々が帰ってくるんだ。
私だけでも喜んであげないと。

数年前の私だったら泣いて彼にさよならしたくないと懇願しただろう。でもそれは数年前の私なら、だ。
安室透が居なくなると言う事は、彼がまた、この国を救ったに等しいのだから、私が悲しむ必要なんかない。
そもそも再会する事なんてなかったはずの男に、今更別れを惜しむ事もない。落ち着くんだ。

「あ、そうなんだ?」

カウンターの下で握った両手は、爪が食い込んでいる、痛い。
果たしてこの意味をなさない相打ちをする私は、しっかりと笑えているだろうか。

「すみません、安室さんからてっきり聞いているのかと思ってました。自分で言うって言ってたので……」

奥歯を噛み締めていた私には梓ちゃんの言葉を噛み砕く事は出来なかった。

若干重くなっていた空気を打破するように、勢いよくドアベルが鳴り響いた。
店内に居た梓ちゃん目当ての皆さんは一斉にそっちを向いたので、この空気を重いと思っていたんだろうな。 
私も天の救いと思って店先に顔を向けると居たのは息を切らせた安室透だった。
全然救いじゃない、多分満場一致の意見ですね。



「お待たせしてすみません」

数年前にも何度か見た事のあるスーツ姿の安室透は梓ちゃんをレジに呼ぶと、財布をポケットから出してなぜか私のコーヒー代を払い始めた。
何が起きているのかわからない私を他所に梓ちゃんに金額を払い、

「飲み終わったら車まで来てくださいね」

と言って安室透はポアロを出ていった。呆気に取られている店内にドアベルの余韻だけが鳴っている。嵐が去った。
我に返った梓ちゃんから「はやく飲んで行ってください!」と急かされ、味わう事なくコーヒーを喉に流し込んで鞄を掴んだ。
扉を開ける際に振り返ると、とっても良い笑顔をした梓ちゃんが手を振ってくれた。
忙しいのにお騒がせしました、そんな気持ちを込めて片手でゴメンとジェスチャーをして音を立てずに閉める。そして目の前で停車しているあのお高そうな車と向かい合う。
すぐに私が出てきた事に気付いたらしい安室透が助手席に回ってドアを開けてくれた。エスコートされているみたいでむずがゆい。
こういう事に慣れていないのをわかっていてやっているのだろう、悔しくて安室透を睨んだが想像通り効果は無かった。促されるままに助手席に座り、シートベルトを締める。
一体何が起きているのか未だによくわかっていないが、とりあえず夕飯はいらないと家に連絡させられた。


連れて来られたのは夜景の見えるレストラン……ではなく個室の居酒屋。 とはいえお洒落な内装と壁に並ぶ可愛い色のお酒からして、いかにも女子受けがよさそうな場所だ。実際仕切りの向こうからは女子会っぽい声が複数聞こえる。
ただ座らされただけの状態の私に気付いているのか気付いていないのか、目の前の男は注文を取りに来たお洒落な女性店員にメニューを見せながら卒なく注文を済ませた。
好きなお酒も、好きな食べ物も彼には知り尽くされていて再会まで数年間もブランクがあったとは思えない。
あの頃から優秀な捜査官である事は聞いていたし、実際そうであったけれども、あれだけの知識を詰めているのに加えてこんなどうでもいい情報まで詰め込めるなんて彼の脳みそは本当に私を同じ物体なのだろうか。

「どうしました?貴女が僕をじっと見るなんて珍しい」
「いえ、スーツの安室さんにお会いするのは珍しいから。今日は探偵のお仕事だったんですか?」

一瞬目を丸くし、何故か笑い始めた。私がわざと探偵の仕事か聞いたのがバレているのはともかく、何をそこまで笑う必要があるのか。
お腹に手をあてて未だに笑う彼は「いえ、今日は別件です」と言って目じりの涙をぬぐった。
……そんな笑う必要あった?この男のツボがよくわからない。

「そんなに白々しかったですか?」
「おや、何のことでしょうか?」
「……もういいです」

礼儀云々、作法云々にうるさい目の前の男にしては珍しく、頬杖をついてほほ笑んでいる。
細められた目は若干馬鹿にされている感じが否めないがめちゃくちゃ様になっていて悔しい。
この男は私の下手くそな気遣いにも気付いていて言っているのはわかっている。貴方みたいに私は演技が出来ないし、こんなオープンな場所で「今日は公安のお仕事ですか?」とは言えないので精一杯濁したつもりだったが、そんな気遣いしなければよかった。
ちょっと拗ねていてたところにやってきた店員さんからグラスを受け取り、私に手渡した。

「まあそんなふくれないでください、可愛い顔が台無しですよ」

と言ってのけた安室透本当に怖い、鳥肌立った。条件反射で表情を引き攣らせた。こればっかりはいつまで経っても慣れない。
軽く乾杯をしてグラスに口を付ける。いつも運転手を任せてしまっているので安室透のグラスはウーロン茶が入っていた。
さりげなく私だけお酒を頼んでもらったが本当は彼も飲みたいのではなかろうか。まあ、今日は突然連れてこられたし、勿論私はありがたく飲みますけれども。

しばらく安室透と二人で世間話をしながら食べたり飲んだりしていた。こうして二人で晩御飯を食べるのは初めてでもないし、気兼ねなく話せるので結構好きだったりする。
今日来たのは最近よく常連客から此処のデザートがおいしかったという話を聞いたらしく、気になったかららしい。それ以外は今日も他愛ない話しかしていない。
お客さんとの話題のバリエーションは多いに越したことは無いし、新しいデザートの参考にするのかな。そう思ったところで疑問点が沸いた。

「安室さん、ポアロでの仕事は明日までって聞いたんですけど」

ウーロン茶を持つ手が止まった。
いつもの穏やかな安室透を演じていたくせに、突然じっと私を見る。その目は苦手だ、彼を思い出す。 話を続ける事が出来ず息を呑むと、また安室透の胡散臭い笑顔に戻った。
有無を言わさない、威圧感すら感じる貼り付いた笑顔を見せて、安室透は言う。

「もう少しお付き合いいただいてもいいですか?」



あの後、無言で安室透の言葉に頷くと直ぐにお会計となった。
財布を出そうとしたら片手で待ったとジェスチャーをされてしぶしぶ財布をしまう。
いつになったらこの男は割り勘という言葉を使わせてくれるんだ、いい加減一人で全部払うのやめてほしい。
静まりきった車内、何処に行くかもわからない行先。
まあ、相手が相手なので大丈夫だと思うが人里離れた山にこんな時間に連れていかれると、もしかして殺されたり、遺棄されたりするのでは、と不安になる。
窓の外を見ているふりをしながら運転手をちらりと見たが、目が据わっているともとれる無表情の安室透からは何を考えているかわからない。

街灯が少なくなって、十分ほど山をのぼるとお高い車が停止した。
降りろと顎で外へうながされたので車から降りるとガードレールの下に夜景が広がっていた。よかった、遺棄されなくて。
車内にジャケットは置いてきたらしい。ポケットに手を突っ込んで隣に並ぶ安室透の方へ向くと先程と変わらず何を考えているのかわからない表情で街を見下ろしていた。
夜景に浮かび上がる端正な顔はキラキラといろんな光に照らされていたが、うつろな表情で街を見下ろす姿は儚い。このまま落ちてしまったらどうしよう。
この男に限ってそんな事は無いと思うが、思わずシャツを掴んだ。
ふ、と小さく笑いながら 「どうしたんですか」と裾を掴んでいた手をやんわり解く安室透に対して、

「貴方が消えそうだから」

と、解かれた手を今度は両手で掴み返した。
このまま手を離すと本当に消えてしまいそう、こんなゴツい男に対して思う事ではないかもしれないが、もしかしたら振り返ったら居なくなっているかもしれない。
明日でポアロから居なくなる事も含めて、今の安室透と言う男はとにかく存在が危うい。

絶対に離さないからな、アンタが私を此処に連れてきた理由とそんな顔をする訳を聞くまでは。
何度も私を守ってくれた大きな手を握る力を強めた。
少し眉間にしわが寄っているかもしれない。それぐらい必死な私と反し、大きな目をまん丸にして見下ろす安室透。
頭を下げ気味に視線を逸らした表情は前髪で見えなくなったが、ギリと歯が悲鳴をあげていた。
あむろさん、彼の名前を呼ぼうと口を開こうとしたが、彼が大きな息を吐き出したので驚いて声が出せなかった。

「ダメだ、締まらない」

空いている片手で前髪をかきあげた彼の表情から、安室透が消えていた。
気を抜くとへの字になる口許、安室透よりも少し冷たい視線。どくりと心臓が動きを速めた。
呆然としている私を他所に、目の前の彼は今度こそ私の手を解き、そのまま流れるようにネクタイを緩めた。
あー、うーとらしくもない声をあげて気まずそうに視線を泳がせていた彼が、意を決したのか私の正面に立つ。

「もう、安室透で居る必要がなくなった」

それは何となく、というかポアロをやめると言う段階で気付いていた。しかも今日は珍しくスーツだったし。
つまり二度目のさようならと言う訳だ。
わざわざこんなところまで連れてきて、それを告げられるのはあまりに酷ではないか。恨み言の一つでも言ってやろうと思ったのに。下唇を噛むので精一杯だ。

「……お前、何か勘違いしてないか?」

久しぶりに聞く二人称にまた心臓がざわめく。ああ、そういえば昔もよく”お前”って呼ばれてた。再会してからと言うもの、名前で呼ばれる事が当たり前になっていたらしい。
もう耳が何も受け付けたくないと言っているようだ、声が上手く拾えない。それでも彼は言葉を続けた。

「安室透は明日死ぬ。その最期を、隣で看取ってほしい 」

そう言ってスラックスのポケットから出てきたのはシックな小さい箱。ベルベット調の布に覆われた箱から中の指輪が取り出され、私の左薬指に通された。
何が起きているかわからず、彼の所作一つ一つをスローモーションで眺めるしか出来ない。
呆然と薬指で光るそれを見ていると、「」と名前で呼ばれ、反射的に顔をあげた。

「できれば……降谷として、な」

目が合うと気恥ずかしそうにはにかむ彼。
安室透みたいに決して完璧な笑顔ではないけれど、今まで見たどの笑顔よりも伝わってくる。
彼が自ら幸せを掴もうとしている事が。
その事実に視界が一気に歪む。どうしよう。
降谷零という男がなんのしがらみもなく笑っている。

いつぞやのポアロで見せた無防備な笑みに、この人にただ平凡な幸せが訪れる事を祈っていた。
名前も違う、性格も違う、本当の自分を見せる事が出来ない彼に、もう一度心から笑ってほしかった、それだけなのに。
その隣に私なんかが居ていいのだろうか。
私は、家柄はともかく至って普通の社会人で、とある事件をきっかけに新人警官だった彼と出会ったと言うだけの、とにかく平凡な女だ。
彼の全てを受け入れる事は、はっきり言って出来ないだろう。こんなに、こんなに彼が幸せを噛み締めた表情を見せているのに!
私には彼を幸せにする事が出来ないであろう悔しさに嗚咽が漏れる。悔しい。言葉にしたいのにしゃくりあげては何を言っているかわからない。

私の嗚咽が落ち着くのを彼は待ってくれている。両手を握ったままの状態、と言うのに若干恥ずかしさがこみ上げてきたが、とりあえず早く彼に言いたい。
……なんで私なのか。
ひ、と漏れる嗚咽を無理矢理閉じ込め、大きく深呼吸を二回ほど繰り返す。ようやく喋れそうだ。もう一度彼の顔をまっすぐ見つめる。

「なんで私なんですか?」

私では貴方を幸せにできないと思うんですけど、と上ずる声で言うと彼の手が一瞬強張った。
握られている手が痛い。痛みに耐えつつ「それとも……」と自分が思いつく限りの理由を考えて告げた。

「もしかして遺産目当てだったり……?」

おそるおそる口を開くと彼は「へ」と力の抜けた声をあげた。

今までにない程の間抜け面を見せた彼は俯くと私の片腕を引っ張ると肩に顔を乗せた。突然の事でカチコチに動けなくなり、されるがままになっている。
なんだこの梓ちゃんなら炎上案件だと騒ぐであろう状況は。
この際自分の心臓がうるさいのは見て見ぬフリをするとして、何を思って彼がこんな事をしているのかわからない。
しかもよくよく見ると肩を震わせて笑っているではないか。私のドキドキ返してくれませんかね。

「そんなに金に困ってるように見えるか?」
「いえ、見えないから聞いてますね」

はー、笑った。
肩口から頭を離すと私の腕を開放し、自身の目尻を拭っていた。
本日何度目かの笑顔。居酒屋で見た時も思ったけど素は意外と笑い上戸らしい。今日の安室透は随分と表情豊かだ。
数年前にこんな笑っている姿を見ていたらさよならを言う決心なんてつかなかっただろうな。自分を冷静に分析し、もう一度左手の薬指を見る。

何故、彼が私を選んだのか本当に理解出来ない。
確かに私は彼に一度恋をした。けれども彼に選ばれるような女では無いし、再会してからも何度胸をときめかせたところで一方的なものとして蓋をしていたはずだ。
ピントが合わない目でぼんやりと指輪を眺めながら考えていると左手を掬い取られる。

「国を守る覚悟をくれた」

左手に落ちていた視線がゆっくりと絡み合う。柔らかな笑みを浮かべた彼は言葉を紡ぐ。

「この国を守る権利をくれた。……それじゃあ、理由にならないか?」

こんなの、ずるくないか。
こんな懇願するような表情で、縋るような目で、あの降谷零が……私を見ている。

こんな姿を見せられてしまったら、断る理由が見つからないではないか。
彼の視線から逃れる事も出来ず、眉根を寄せて小さく首を左右に振る。 決して不快な訳では無い。ただ現実が受け止められないのだ。
私 の知らないところで幸せを手に入れるとばかり思っていたから、この男に必要とされる事が信じられない。嬉しいけれどまだ困惑の方が強い。

「再会してすぐに言ったよな、あれで別れたつもりは無いと」

先程までの弱弱しい表情から一転、鋭い眼光で訴えられる。
いつの間にか強く握られている左手。燃えるような視線と彼の少し高い体温に私まで熱に浮かされそうなのに、思考だけがどんどん冷静になっていく。

鮮明に瞼に残っている数年前の記憶。
職場まで押しかけて泣くだけ泣いた私に、また出会ったら自分をよろしくと言ってくれた目の前の彼。
意思の籠ったこの目が好きだった。意地っ張りで、わかりにくいれども根は優しい性格が好きだった。
支えてくれた腕は見た目よりも随分としっかりしていて、夢見る夢子の理想の王子様を演じ続けてくれた。
たとえ彼にとっては保護対象の一人だとしても、私には青春の古傷とも言うべきなのだろうか。
本当はずっと彼を忘れた事など一度も無かった。押しこめていた感情があふれ出すのが分かる。
自白します。私はこの男が好きです。

「本当に、私でいいんですか?」

認めてしまえば、まだ青い思い出をこじらせていた自分に対して羞恥心が込み上げてくる。活きの良いアラサーが初心な恋愛をこじらせたものだ。 彼の真っ直ぐな瞳から逃げたくて視線を逸らしたが、顎を掴まれて無理矢理視線を合わせる事となった。

「それはこっちの台詞だ。こんな死と隣り合わせの男を選んで大丈夫なのか?」

片方の口角をあげ、挑発じみた笑みを見せる彼に漸く余裕と言う文字が浮かんだ。
ああ、もうこの人は私が拒絶するなんて思っても居ないだろうな。数年ぶりに見た表情に、何故か安堵した。
「悪人面」ぽつりとつぶやくぐらいには私の頭も正常に物事を考えられるようになってきた。
若干、額に青筋を立てた彼がホォーと言いながら私の左手に右手を絡ませてくる。妖艶な手つきはさっきまであんなに子犬みたいな表情をしていた人間と同一人物とは思えない。でも顎を掴んでいる手は力が込められて、私の顔はどんどんひょっとこ顔になっていく。この子供っぽいところも、懐かしい。
その姿はまるで理想の王子様では無いが、目の前に居る安室透とは違うこの男に我慢していた涙がまた溢れてくる。

「相変わらず泣き虫だな」
「うるさいです」

するりと絡めていた手を解き、涙が流れる目尻に触れる。
化粧落ちるじゃないですかと言おうと思ったが既に一度泣いた後だ。もう目尻にアイラインなんて残ってないだろう。
目を細めて笑う彼は相変わらず顔がいい。こんな近距離で見ているだけでも恥ずかしくて、私だけが結局余裕がなくて悔しい。

「ていうか、指輪サイズぴったりすぎて気持ち悪いです」

意地になってまた可愛げもない事を言ってしまったが、先手必勝。「お前なあ」と呆れた声をあげた男の胸に勢いよく飛びついた。残念ながらふらつきもしなかった。
甘い顔からは想像もつかないガタイの良い腰回りにぎゅ、と腕を回す。視界の端っこに見える手は珍しく宙を彷徨わせている。
どうせまた私だけがドキドキしているんだ、ちょっとぐらい大胆になってもいいだろう!もう半ばヤケである。
ほとんどシャツにめり込んでいる状態で聞こえるか聞こえないかわからないような声で言った。

「もう、名前を呼んでもいいんですよね……?」

恥ずかしい。一瞬にして自分のした大胆な行動を猛省した。今更離れる事も出来ない。顔を上げる事などもっての外だ。
それでも一番言いたかった事を言いたくて、精一杯の気持ちを込めたつもりだ。
しかしいつまで経っても返答がない。やはりこういうのは苦手だったのだろうか。
おそるおそる顔を上げると彼は硬直したまま顔を赤らめていた。こんな人間味のある表情をされてしまったら改めて自分が大胆な事をしてしまった事を自覚してしまう。男の赤面が移ってしまったのか、私も顔が発火しているのではないかと思うぐらい熱くなってきた。
ギギギと錆びた金属のような動きしか出来ない私を凝視するだけの置物だった彼が突然動き出した。
数年前も抱きしめられた事があるがあれはあくまで、恋人のフリのひとつだった。それが今はどうだ。ぎゅうぎゅうと抱きしめ返されている。
これではどちらが先に抱きしめていたのかわからない。

「呼んでくれ」

たっぷりと間を空けてからぽつりと聞こえた言葉。一瞬何の事かと思った。私への返答か。
いざ言おうとすると心臓が破裂しそうなぐらい緊張する。明らかに早くなっている鼓動と同じぐらいの速さで彼の心臓も動いている。この完璧人間でも緊張とかするんだ、と冷静になれた気がする。

「ふ、降谷さん……」

この名前を言うのは人生で三度目。唇が震えた。ずっと、ずっと口に出したかった、数年ぶりに発した彼の本名。
彼の腕の中で言えたと言う奇跡に一人感慨深いと感動していると、何故か勢いよく引きはがされた。

「え、どうしたんですか?」

ぱちくりと数回瞬きをすると、少しがっかりした表情をしていた降谷さんが怒ったような口ぶりで言う。

「お前も降谷になるんだろ」

……訂正。怒ったのではなく拗ねている。
ぷい、と顔を逸らした降谷さんを見てこの表情もレアだな、と考えたところで彼が言った言葉の意味を漸く咀嚼した。顔が熱い。

「え、あ、え……あ……」

しどろもどろになる私に耳元で「もう一回」と促される。
引き剥がされていた筈なのに、気づいたらまた近い距離にある整った顔。視線を何度か彷徨わせ、降谷さんを見つめる。

「れ、れいさん」
「……まあ、及第点か」

そう言うと降谷さんはまた強く抱きしめた。
ふる……零さんの弾んだ声が見えなくても彼がどんな顔をしているか教えてくれる。
あの能面のような笑みで表情が読めない男とは違う、本当に心の底から嬉しいと思ってくれているであろう笑顔。彼が笑っている。そう、彼が何もしがらみも無く笑っている。



残りの人生で彼の本名、しいては下の名前を呼ぶ日が来るとは思っていなかった。
そもそも何も言わずに連れて来られて、殺されたらどうしようと謎の恐怖と戦っていた筈が、めちゃくちゃ夜景の綺麗なところに連れて来られて、何故かプロポーズをされ、指輪まで渡されて、それだけでも十分キャパシティオーバーなのに。
挙句、名前を呼んでくれなんてずるい。

おそらく恋人としてはところどころ順番がおかしい気もするけど、私にとって彼の名前を呼ぶ事はとても重要な事なのだ。おそらく、零さんにとっても。
他の誰でもない、降谷零の名前をこの空の下でまた呼べる事が奇跡なのだ。