閑話


男の視線がある一人の女性で止まったのを、女は見逃さなかった。
運転中の、それもある程度スピードが出ている中でその女性を見つけた男の動体視力もさることながら、女のそれも大したものだ。
一瞬、視界に入った見覚えのある女性。女は運転席に座るこの男が最近やたら気に掛けているところへ度々遭遇していた。

「最近随分とご執心ね、バーボン」

艶やかな女の声は、車外のささやかな音しか聞こえない闇によく馴染む。
運転手はルームミラー越しに一瞬だけ視線を女に寄せたがまたすぐに前を見る。

「何のことですかね?」
「とぼけても無駄よ。あのお嬢さん、よく一緒に居るじゃない」

眉一つ動かさず、口元に笑みを浮かべた男は暗闇に伸びる車線を見つめたまま答える。

「ああ。元カノですよ。この間たまたま再会したんです」
「元カノ、ねぇ……」
「おや。もしかして僕、疑われています?」

軽口で答えているがまったく感情が籠っていない。相変わらず感情の読めない男だ。女は飄々とした男の態度が気に食わず、サングラスに隠れている眉を顰めた。

「学生時代に付き合ってたんですよ」

信号で停車し、運転手は助手席の女に顔を向けた。
照れくさそうにはにかみながら、

「本当に、偶然再会してしまったらつい手放せなくなってしまって」

と頬を指でかいた。
実の所、全て男の演技であり、女もそれを見抜いている。
しかしながら常に能面の笑みを絶やさない男が珍しく表情をみせたので、女もわざとらしく驚いたフリをしてみせた。

「あら、貴方にもそんな人間らしい感情があったの?」
「僕の事、どう言う人間だと思ってるんです?」

また軽口を叩きながら男が車を発進させる。

「これでも僕、一生懸命アプローチを掛けているんですよ」
「組織の中でも冷酷と言われていた貴方が、ね」

サングラスの中で目を細めた女が疑い深く男を見つめる。
彼らが所属する組織は秘密主義ではあるが、噂程度に構成員の特徴は流れてくる。
この男――バーボンこと安室透は目的の為ならば手段は択ばない男として組織内では有名であった。

「それにしたってわざとすぎない?」
「何の事ですか?」
「私の前で、わざと会ってるでしょう」

女の語調が険しくなり、鋭く男を射抜く。女が疑いの目を向けて居たのはそれが理由だった。
この男と先ほどの女性が、仮の職場であるポアロで会っている場面や、車で送迎をしている場面を見かけているが、決まって男はこちらに気付いているのだ。
一瞬こちらに目を向けると他人のフリをして例の女性をエスコートする。 これはもう自分に対して何か訴えているとしているとしか思えない。だが男は視線を向けるだけでその後もアクションは無い。
それが数回続くと流石に女も二人と遭遇する度にわずかだが苛立ちを感じていた。何度、心の中で舌打ちをしたか覚えていない。

「取引ですよ」

車内に緊迫した空気が流れる。
それでも男は飄々とフロントガラスの向こうを見ており、余計に女の琴線に触れている。

「貴女に大切な二人が居るように、僕にも大切な女性が居るんです」
「……なるほどね」

女は息を吐き出すと、男を見ていた目つきが和らいだ。
男の言葉を信用するかはともかく、この男が危ない橋を渡ったとしても、あの女性を手放す気が無い事はよくわかった。

「彼女、男を見る目が無いわね。別れて正解だったんじゃない?」
「ひどい言われようですね」

女の随分な物言いも軽く受け流しながら、男はウインカーを出して十字路を曲がる。
器量の良いこの男にかかれば、靡かない女は居ないであろうに。どんな情熱的な言葉も、歯が浮くようなセリフも、この男が言うと途端に感情が伴わない。
胡散臭いとも取れる男の言動に辟易としてもう一度女はため息をついた。

「可哀相な子。貴方みたいな危険な男に捉まるなんて」
「……そうですね、僕もそう思います」

国道沿いの街灯に照らされた男の眼光が僅かに鋭くなる。窓越しに女はそれを見過ごさなかった。
とっくの昔に通り過ぎた彼女を思うこの男は、珍しく感情の起伏を無理矢理押しとどめているように思えた。
女が思っているより、男は嫉妬の炎を瞳に灯している。これは本格的に可哀相だ。
この蛇の如く執念深い男に目をつけられている彼女が。この男が執着するような特出した雰囲気を持った女性では無かった。
いつか平凡な彼女は、この男の本性を知って逃げ出すのではなかろうか。彼女が隣の男の闇に飲み込まれてしまう事を想像して、名前も知らない彼女に少しだけ同情した。

扉に肘をついてじっと運転手を見ていると「穴が開きそうなのですが」と嫌味が聞こえた。
特有の心が籠っていない文句などどうでもいい。聞き飽きた。女は気にもかけずに横顔を眺める。

「貴方、思ったより嫉妬深いのね」

そう言おうとしたが口を閉じた。あまり深入りするとこちらにも火の粉が降り注ぎかねない。薮は無駄に棒で突かない方が良い。
男から興味を失くした女は窓の外に目を移す。国道の広い車道を抜けた細い道を走る車窓は夜の闇に包まれている。

自分も隣の男も、光の中よりこっちの方がよく似合う。
女は目を瞑り、自らの天使達を思い浮かべた。
緊迫感の途切れた車内にまた表向きは穏やかな静寂が訪れた。


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