「あ、さん。お待ちしてました!」 「安室さん、一体なんなんですか!いきなり呼び出したりなんかして……!」 ほぼ定時で帰れる喜びを胸に、今日はまっすぐ家に帰ろうと鞄を手にするとタイミングよく震えたスマホ。 突然「ポアロに来てください」とだけ言われた電話を無視するわけにも行かず、とりあえずやってきたわけだが。 また一瞬にして店内の視線を独り占めする私。どうみても好意の視線ではないそれに一瞬たじろぐが、それと同時に「またやってしまった!」と学習しない自分の軽率な行動に呆れた。 そうだよね、私なんかが安室透の電話番号なんか知っててごめんね! でも依頼人なら電話番号教えてもらえるんじゃ……まあ、そんなのどうでもいい。 今は突然呼び出された事を言及したい。 安室透に向き直ると、よく見れば腕に何かを抱えていた。 「え、安室さんいつの間に結婚したんですか?お相手は梓ちゃんですか?」 真顔で言った私にカウンター越しから全力で否定をする梓ちゃんが「なんてこと言うんですか!」とめちゃくちゃ弁解してきた。 その姿を、苦笑いをこぼしている安室透と視線で私を殺そうとしているギャラリーが見守る。 いや、じゃあ誰の子なんですか。それに呼び出された理由がわからない。 「依頼人に預かってほしいと頼まれてしまいまして……」 この後ポアロのバイトだと言ったのですが、この通りで。 困ったように笑う姿も絵になっていて、ギャラリーには効果てきめんのようだ。みんな目がハートになってる。 安室透のうすら寒い笑顔はいつまで経っても慣れない。今度は私の表情が引き攣った。 「そこで子供の扱いが上手そうな人を探していたのですが、あいにく見つからなくて」 「で、さんに白羽の矢が立ったってワケ!」 安室透の言葉を遮ってカウンターに乗り出した梓ちゃんが言う。 「彼氏もいないアラサーに頼むとか喧嘩売ってる?」 水とおしぼりを受け取ると間髪なく答えた私に、梓ちゃんは「うっ」と言葉を詰めたが、いつの間にか私の隣に座って赤ちゃんをあやしていた安室透へと救いを求めた視線を送った。 「さん子供に好かれやすいじゃないですか。 それに昔、アルバイトで近所の子供たちの先生をしていたこともありますし……」 安室透の言葉に違和感を感じた。 彼に身辺警護をしてもらっていた時はまだそのバイトはしていなかった。 その後に知り合いの紹介で週に二回だけ子供たちに簡単な勉強を教えていたが……思わず顔を顰めて声を低くした。 「待って、なんで知ってるの?」 「……さあ、なんででしょう?」 ニコニコと笑顔を崩さない安室透に、これは何を聞いても無駄だと悟る。 さすが自称・探偵。どうせ本職で調べられても一発でわかってしまうのだろう。今更、どんな方法で調べられていたのか知りたくもない。 ていうか、周りのギャラリーに保育士なり教師なりなんかそういう職の人居そうじゃん。任せろよ。 と、思うが押し付けられたとは言え、依頼人の子供。ひいては国の未来を担う存在だ。彼にとってはむげにできないのだろう。 そういう意味では彼に身元が知れまくっている私は適任者ではあるが。 ただ安室透関連でインターネットとかで叩かれるのは勘弁願いたい。この間の梓ちゃんの炎上を見てしまった故に絶対に回避したい案件だ。あと刺されるとかもいやだから、その辺りもどうにかして。 結局、ポアロが閉店するまでの時間、安室透から赤ちゃんを預かってあやしていた。 彼の腕に居る時からなんとなく気付いていたがずいぶんとおとなしい子だったのでほとんど何もしていない。もしかしてまた体よく使われただけでは? 梓ちゃんは本来早番だったらしいが、安室透が使い物にならないので夕方まで居てくれたらしい。私が預かると直ぐに帰ってしまった。 その後の一時間ぐらいは生き地獄かと思うぐらい視線の矢で串刺しにされたが、腕の中にいる赤ちゃんだけは変わらず可愛くて、周りを無視して無心であやした。 安室透は最後の客を玄関まで見送り、店じまいを始める。私もようやく視線から解放された。 が、冷静になったところで私はいつまでこうしていたらいいのかと安室透を横目に考える。 さっきまでのにぎやかだった店内とは打って変わってとても静かだ。 いつぞやの再会した日も閉店時間まで居たが、人数も居たので此処まで静かになる事はなかった。今は食器同士がぶつかる音、流れる水の音しか聞こえない。普段のポアロしか知らない私にとってはなんだか不思議な感じだ。 ふと赤ちゃんのおしりに少し重みを感じた。脇に手をいれて抱き上げるとやっぱりおむつが膨れている。 「安室さん、この子のおむつってありますか?」 安室透を見ればちょうど店じまいが全て終わったらしくエプロンをはずそうとしていた。 「ああ。僕がやりますよ」 素早くエプロンを畳んでバックヤードに私を招く。 花柄のトートバッグをロッカーから取り出した安室透に「え、どこで替えるんですか?」と聞けばテーブルもないので床しかないといわれた。うそでしょ。 とりあえず彼に赤ちゃんを預けると店内から自分のコートを持ってきた。 いくら敷くものがあっても固い床に寝そべらせるのは自分的に心が痛んだ。大丈夫、赤ちゃんのなら汚くない。 はい、どうぞ。トートバッグに入っていた敷物の下にクッション代わりのぐしゃぐしゃに丸めたコートをいれると安室透が目を丸くして私を見ていた。なんですか。 「いえ、いい奥さんになりそうだなあ、と」 「……だから喧嘩売ってるんですか?」 眉をぴくりと動かす私を見て、間違いなく楽しんでいる。どことなくいつもより機嫌がいい安室透は赤ちゃんのおむつを交換した。その手際の良さは「もしかして子供います?」と思わず聞いてしまうほどだった。 「子供どころか結婚すらできそうにない理由を一番よく知っているのは さんだと思いますけどね?」 ふ、と笑った横顔はいつもの貼り付けた笑みではなかった。……一瞬だけ、一瞬だけ胸が苦しくなった。彼には普通の幸せすら高望みなのだろうか。気付かれないように下唇を噛んだ。 新しいおむつで機嫌がよくなったのか、赤ちゃんが心なしかさっきより動きが大きくなった。安室透も気付いたのか赤ちゃんをあやし始める。 両足を軽く持ち、ちょんちょんと足の裏をくっつけてあやすときゃっきゃと声をあげて赤ちゃんが喜んだ。おとなしい子だったので思わず安室透と顔を見合わせた。 もう一度足の裏を安室透がくっつけてあげるとまた声を出して笑う。 かわいいですねと彼に同意を求めるべく安室透に顔を向ける。隣の彼に、目が逸らせなくなった。 少し驚き気味だった安室透の表情が、真顔になって、次第に、ゆっくりと、ゆっくりと破顔する。 ありきたりな表現で、花のように笑うと比喩することがあるが、目の前の彼はまさに向日葵だった。夏の青い空と白い雲、そして太陽を見てゆっくりと花開く向日葵。 遊んでもらっていると認識したのか赤ちゃんが懸命に安室透へと両手を伸ばす。 彼は赤ちゃんを抱きあげると、額同士をあわせて近い距離で笑っていた。 二人とも、とても無防備に。 この狭くて暗いバックヤードに、夏の風が彼らと私の間に吹き抜けた気がした。まるで本当の親子のような姿を遠巻きで見つめている自分は、完全に傍観者で、あの絵画のような世界に入ることは出来ない。 彼の胡散臭い笑顔は再会してから何回も見飽きるほどに見た。楽しくもないくせに、腹のうちでは違う事を考えているくせに、それでも笑っている安室透がとても苦手だった。 気が短い降谷零を安室透と呼んでいたからか、私の中で再会してからの安室透は安室透であって彼ではなかった。 しかし、今、目の前に居る、キリッとした眉をハの字に下げ、大きな目を線のようにして、口を大きく開けて笑う無防備な男。彼は安室透なのか、降谷零なのか。 呆然と目の前の光景を見ていた私は、きゃっきゃと楽しそうに声をあげる赤ちゃんと戯れていた彼が「可愛いですね」と声を掛けるまで泣いていた事すら気付かなかった。 彼にしては随分と慌てた様子で「どうしたんですか!?」と聞かれたが私も何で泣いてるかわからないんですよね。 心の整理がついていないまま「なぜか涙が出てきました」と笑って誤魔化し、ハンカチを取り出した。 その間も赤ちゃんは変わらず彼に構ってくれと言わんばかりに手を伸ばしていた。 「……かわいいですね」 遅めの返事をすると、彼はもう一度赤ちゃんを見て「ええ」とはにかんだ。慈しむような視線を向ける彼に拭ったはずの涙がもう一筋流れた。 私は降谷さんに、ただ笑ってほしかったんだ。 貴方がなんのしがらみもなく、心の底から笑える日を待っていたんだ。 ――あの頃から。 彼がなんでポアロでアルバイトをしているか、今どんな仕事を受け持っているのか、何も知らない私にはその日を待ち望む事しか出来ない。 いつか彼が一番大切な人と今日みたいに笑える毎日が来ますように。 たった数週間の関係だったとは言え、私にとってはかけがえのない時間を過ごした人なのだ。他人の私にも彼の幸せを祈らせてほしい。 それからしばらく。 依頼人である赤ちゃんの母親がポアロに来るまでの本当にわずかな時間だったが、彼にとって少しでも優しい時間になっただろうか。 もしなっていたのならば、今日みたいな日も悪くないとガラにも無く思った。 |