「……恋人、か」

世間では、今日から始まった東京サミットに注目が集まる中、その背後で起こるIOTテロ、はくちょう帰還……一連の計画的犯行がようやく解決し、長い一日がようやく終わりを迎えようとしていた。
夜中にも関わらず滅多に帰る事のない自室へと帰った事に意味はない、と言いたいところだが、恐らくあの少年の言葉に感化されたのだろう。

警察官になってからずっと借りている自室は見回しても相変わらず生活感が無い。
この部屋には家主が「降谷零」と言う人間であると示す物は何もないのだ。
それでもこの部屋に帰ってきたのは、あの頃を思い出したからだろう。



警察学校を卒業し、初めて関わった一つの事件がある。
厳重な警戒態勢を敷いた中に新米とは言え、配属された部署を鑑みてか、重要なポジションへと配置されていた。

当時の首相は公邸には住まず、自身の私邸を居住としている。有名な話だった。
本来であれば、首相の公的な警護は公安の管轄外であるが、犯行予告の内容を鑑みて公安も招集され、私的警護も含めて複数の組織による合同警護となった。

その事件の中で知り合った女性、。首相の孫娘で現在女子大学に通っている二十一歳。
従来の要人警護では顔が割れている可能性があるため、彼女を含む首相親族の身辺警護には公安が抜擢された。
予告日時までの数週間、彼女の恋人に成りすまし、日中の警護を任された。
あの数週間はとにかく忙しなく、忙殺と言う言葉が頭を過ぎっていた。あの経験が現在の任務にも活かされていると言っても過言ではなかった。
元々苦では無かった徹夜が得意になったのはあれがおそらくきっかけで、安室透と言う人格形成にも大きな影響をもたらしていた。
走馬灯のように当時を思い出すと、一度椅子に深く座り直し、天井を見上げた。
瞼を閉じるとぼんやり浮かぶ彼女の笑顔に、思わず眉を顰める。やるせない思いを何処にぶつけていいかわからず、前髪を掴む。そして力なく自嘲した。
――彼女を思い出すとガラでも無いが……今でもじわりと何処かが痛む。



と言う女は前述通り、至って普通の女子大生だった。
私立の女子大に通い、成績も至って平凡。キャンパス内では数人の女子と常に一緒で、笑いの絶えない様子に特段変わった事は無い。
しかし、彼女が首相の孫娘である事実を昨今のネット社会が黙って見過ごす訳が無かった。

普段彼女を警備している民間会社からあらかじめ大方の話は聞いていたが、少し調べただけでも出てくるキャンパス内や登下校中のの隠し撮り。そしてそれに付随する彼女への誹謗中傷。ログを辿れば彼女への殺害予告なんかも出てくる。
今回の犯行声明文を察するに、首相及び親族以外にも私邸周辺や家族の勤務地や学校等の不特定多数にも被害が及ぶ可能性があった為、公安が動いているが、普段からこの有様でよく今まで何も起こらなかったな、と思った。それほどまでに彼女へ向けられた悪意は他の親族の群を抜いて酷い有様だった。
現内閣・現総理への国民の不満なのか、それとも彼女への私怨なのか。 組織に組み込まれた人間の一人として、そういった人の闇は既に新人とて目にしていた。
大の大人ですら見て見ぬふりをするのに精一杯それらを真正面に向けられていても尚、明るく振舞っていると言う女性にわずかながら既に興味を抱いていたのかもしれない。

「安室透さん?」

初対面ではと降谷零として顔を合わせたが、今後恋人として接するにあたり、自分の所属やら事情を説明して偽名で呼ぶように伝えた。
彼女は特段驚く素振りもなく、「まあ、そうですよね」と一連を肯定し、
「安室さんか透さん、どっちがいいですか?」

と笑っていた。首相の孫娘だけあってか、そう言った類の物わかりは良いらしい。

「お好きにどうぞ」
「じゃあ安室さんで」

随分と肝が据わっている。自分に危険が迫っているかもしれないと言うに楽しげに隣で笑っているのだ。
友人との面白かった会話や、授業で聞いた内容を嬉しそうに話しているにこっちも気が緩みそうになる。……とんだ御嬢さんだ。
すっかり会話の主導権を握られた車内で無意識に頬が緩む。
首相私邸への帰路、少しずつであるが彼女との距離が縮まったのを感じた。

「最近ね、安室さんが授業終わりに迎えに来てくれるでしょう?」

今日も私邸まで彼女を送り届ける。目的地に到着し、車を降りる寸前、はシートベルトを外す手を止めた。

「安室さんみたいな彼氏何処で見つけてきたの!ってよく友達に言われるんです」
「それは光栄だな」
「でた!安室さんのドヤ顔!」

へらへらと笑う彼女を軽く小突き「俺をからかうな」と言えば、「ちょっと待ってて」と車内に鞄を置いたまま、私邸に小走りで向かって行った。

この頃の安室透は今ほど綿密に設定が決まっていなかったため、極めて降谷零と同一だった。後に彼女が俺を「外見は王子様」と揶揄した事をきっかけに現在の人物像へと確立する事になる。
バーボンとして組織へと潜入する際に何を思い出したのか、突如使い始めたもう一つの自分。
降谷零と真逆の人間に最初は使い分けが出来ず、彼女に「今のは安室さんじゃないでしょ」と笑われる事も多かったが、彼女は最初の顔合わせと一度を除いて外では絶対に降谷零の名前を出す事は無かった。
今思い出しても彼女は意外と律儀だった。

「はい、いつもお疲れ様」

いつの間にか車内に戻ってきては「缶コーヒーでごめん」と添えて缶コーヒーを手渡した。
目を丸くしている俺を横目に、とっとと助手席に置いた鞄を持ち、何事も無かった様子で「またね!安室さん!」と彼女はドアを閉めた。
私邸の玄関で振り返った彼女が愛車のドア越しに手を振ったので、小さく振りかえすと満足げに屋敷の中へと消えていった。

お疲れ様はどっちだか。
今までの警護は行動に制限は無かったはずだが、現状かなりの規制がされている。
元々アルバイトはしていなかったようだが、帰り道に友人と遊びに行く事も出来ず、毎日会いたくもない男が大学前まで迎えに来る生活は、今まで以上に息の詰まる日常だろう。
それなのに年上の俺が心配されてどうするんだ。
警察官として初めての大きな事件に自分の事で精一杯になっていたのは俺の方だったのか。
渡された缶コーヒーをじっと見つめれば、思い浮かぶ先程まで一緒に居た彼女。へらりと笑う姿を思い出せば顔が熱くなった。
若かりし俺はその理由に気付かないフリをし、振り返る事無く車を発進させた。



犯行予告当日。
俺は首相私邸から離れたひと気の無い場所で待機をしている。今日は 亀田を警護する為に数人配置がされており、周囲は厳戒態勢が敷かれている。
結論として、彼女の元には大きな事件が起こる事は無かった。しかしながら総理官邸を含む数か所でテロ未遂が起きた。その中には彼女の通学路となっている場所も含まれていた。
未遂で終わったが負傷者も出ており、喋り続ける無線の声に、安全なところにいたとは言え彼女の表情も少なからず翳りが見える。
私邸まで彼女を送り届けると、出発した時よりも屋敷周辺の警官の数が増えている様子に苦笑いを零していたが、やはり覇気は無かった。
いつもならばすぐにシートベルトを外して私邸へと帰るのに、俯いたまま動く気配の無い彼女へ声をかけた。

「……沢山の人を巻き込んでいるのに、私、自分の事しか考えてなくて……自分が嫌になっちゃう」

無理に笑っているのがあからさまな彼女に「人間なんてみんな自分の事しか考えて居ませんよ」と言うが彼女は余計に傷ついた表情を見せた。 ただいつものように笑ってほしいだけなのに。何故そんな顔をして俺を見るんだ。

「じゃあ今から言う事、引かないでくださいね」

またしても俯いた彼女の表情はもう読み取る事が出来なかったが、膝に置かれていた両手を強く握りしめるのが視界の端で見える。

「安室さんと、さよならしたくない……!」

勢いよく見上げた彼女の目から一筋の涙が流れたのを、ただ呆然と見つめる事しか出来なかった。
俺が終わらないと思い込んでいた時間が終わるのを理解していた。
彼女は聡明だった。この時の俺よりもずっと。



あの日、どういう風に話をして、どういう風に別れを告げたのか、正直覚えていない。
屋敷に入るのを確認してからいつもは発進していたはずなのに、それすらもあやふやだ。
覚えているのは初めて見たの涙だけ。嗚咽を堪えるその肩を引き寄せる事は出来なかった。

しばらくして今回のテロ未遂をきっかけに現内閣は総辞職。彼女は「現総理の孫娘」から「元総理の孫娘」に変わり、世間の目も次第に興味の対象を別のモノへと移ろいで行った。
総辞職後、しばらくして見たインターネットでは彼女に対する新しい書き込みは見つからなかった。とは言え一度書かれた事が完全に消える事は無い。
彼女に対する悪意がどれほど彼女の肩にのしかかっていたのか。今となっては全くわからないし、理解しようにもなす術がない。
どうしようも無い状態にため息をつく回数が増えた気がする。また一つため息をつくとノートパソコンを閉じた。

テロ未遂から数ヶ月して、上司から呼び出された部屋に向かうとが居た。
徹夜明けでよれたカッターシャツの胸元がくしゃりと皺を寄せた。忘れていた筈の何かがまたこみあげてくるのが嫌でもわかる。

「急にごめんなさい。でも最後にどうしても会いたくて」

あの日と重なる俯いた彼女。机を隔てて正面に座ると彼女はおそるおそる顔を上げた。
安室の口調で「どうぞ」と言えばしどろもどろではあるが話を始めた。
彼女が元首相にどうしても俺に礼が言いたいと掛け合って此処に来た事、あの数週間は狙われていると思うと怖かったけど一緒に居て楽しかった事。
そして締めくくりにこう言った。

「私、あむ……降谷さんに出会えて本当によかった。降谷零さんに会えてよかった。
 貴方はきっとこれからもこの国を第一線で守る人だと思うから、もう会えないと思うけど……。
 私は安室さんじゃなくて、降谷さんに惹かれました。
 素敵な時間をありがとう」

ポロリと片目から涙をこぼした彼女は、あの日見た悲しげな表情ではなかった。あの日々を慈しむような笑みと心からの感謝の意に胸が苦しい。
最後なんて言うな。俺が守るから。
そう言えば良いだけなのに。今の俺には其処まで全てを守りきる自信も、力もない。
狭い部屋にギリと歯が軋む音が響く。
言葉を紡ごうにも、いつもは饒舌なのにうまく口が動かない。二、三度ほど口を開き、震える唇を動かした。

「……俺こそ、ありがとう。
 さん、いや、が居るこの国を、これからも守るから。
また何処かで降谷零に会ったら、よろしく頼む」

現・内閣総理大臣ならまだしも元首相の孫娘ではもう出会う事は無いだろう。お互いわかっていた。
大きく頷いたの涙を一筋拭うと胸中には既に決意が固まっていた。
また一つ、この国を守る理由が増えた。


随分と、物思いにふけっていたらしい。
カーテン越しに感じる陽射しを受けてベランダに向うとあの日から変わらない、俺が命に代えても守るべきこの景色が広がる。
窓を開ければ高層ビルの狭間から入り込む陽射しに眉を寄せる。しかし口許は自然と弧を描いていた。気分だけは妙に清々しい。

かつて日ノ本と呼ばれた国の朝焼けを意識して眺めたのはいつぶりだろうか。
いくつもの理由と幾人もの思いが重なり、母国を慈しませ、自らを突き動かしている。恋人にも等しく思えるのは、彼女が今もこの国の何処かで笑ってくれていると信じているからだろう。

――あの日から。
降谷零の恋人は、彼女が生きるこの国だ。

とある男の愛国観