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世の中体裁がとても大事な時代でしたゆえに、この思いは本当は捨てなければいけない感情なのでありました。戦争がはじまって数ヶ月。国民学校の男子生徒というのはほとんど居らず、体が弱かったり、怪我をしていたりの男子と、幼少の児童のみとなっておりました。そのなかでもひときわ目立っていたのが、わたくしのクラスの和也という男子でして、彼は以前起きたクウデタアなるもので足を負傷いたしましたゆえ、この戦争まっただなかでも国民学校に通っている次第であります。しかしこの時代、お国の為に戦えない日本男児はあまりよくない風潮でしたので、和也はよく国民学校や登下校の道にて噂話などをしている人々をよく見かけました。戦争はさらにひどくなる次第で、国家総動員法が出され、わたくしたち国民学校の生徒も疎開など言ってる余裕もなく、工場で働いたり、家を壊したりなど、肉体労働が続く日々となりました。足を怪我していた和也は特に家を壊す時などは足に力が入らず、精一杯やっていてもこけてしまうなどの始末で、壊したあとによく軍人さんに殴る蹴るなど暴力をふるわれておりました。何も出来ない日本男児、や、ひどい軍人さんは和也に非国民とおっしゃっておりました。しかし和也は好きで足が悪いわけではなく、元を正せばお国のせいでまき沿いをくらい、彼は足を負傷したのであります。と、一度わたくしが軍人さんに意見を申し上げればわたくしも非国民扱いされ、わたくしはよろしいのですが、和也にまた申し訳ないことをしてしまいました。それ以来わたくしは和也と関わる事を極力ひかえることにしました。わたくしが居ては和也がもっと惨めになると、思っていた次第であります。さらに戦争はひどくなり、物資はほとんど足りておらず、政府は欲しがりません、勝つまではというポスタアをいたるところに貼り、そして足が悪くても、持病があってもよっぽどでないとみな日本男児なるものは天皇陛下のために玉砕覚悟という指示が出ました。和也にも、わたくしたちの国民学校からもほとんどの男子が戦争に行くことになりました。月日というものはすぐに過ぎ去ってしまうと先の人々もおっしゃっていたように、和也たちの出発も当日となってしまい駅は和也たちがお国の為に名誉ある戦争に出発するためにたくさんの人が居て、汽車に乗って戦争に行く和也に、まわりは祝福しておりました。わたくしには和也が何処にいるのかさえわからない状態でしたが、和也がわたくしの元に来て、汽車が出る寸前、わたくしにこういいました。「戦争が終わったら一緒に暮らそう」と。わたくしにはもったいないほどのお言葉でしたが、和也の真剣な目に、わたくしも答えなければいけないと思い、返事は是と答えさせていただきました。そしてそれは8月の7日のお話でありました。数日してお国・・・いえ天皇陛下は敗北なされ、玉音放送がただただ、工場のラヂオにて流れるだけでありました。











それから数日して、この街にも戦争で生き残って帰ってこられた方がたくさん汽車から降りてこられました。毎日毎日、たくさんの、この街に住んでいらした方が。わたくしの父上も戦争に出兵なされて、つい先ほどこの街にご帰還なされました。お話を聞かせていただいていたところ、満州にて満州の経済安定のために働いていらしたそうです。途中何度も中国やらソ連やらの軍が攻めて来て、一緒に居たお方もお亡くなりになられたそうですが、父上は奇跡的に父上と、そのご友人と共に、汽車で帰ってきてくださいました。ご無事で何よりでした、と父上に泣きつくと、父上は軍服には血がついているから、とわたくしを離して、頭を撫でてくださいました。それから数日、わたくしたちの通っている国民学校の先生や、ご近所のおじ様、隣のお家のご主人など、たくさんの方が無事に帰ってこられました。しかし、いつも駅に行っては敏弥を探しておりますが、やはり彼は居ません。何度も駅で皆様のご無事を確認しておりますが、わたくしが探している彼は、いまだに帰ってきておりません。そしてある時、敏弥と同じところに配所されていた国民学校の男子が帰ってこられました。その男子が言うには敏弥とは途中まで一緒の戦線だったけれども、途中から敏弥は戦線を離れて、違う場所に移動させられた、というお話でありました。その移動先が、特攻隊だと聞いたのはそれから数日後のお話でございます。特攻隊の申しますものはお気づきだとお思いですがもちろん自らを爆弾とし、敵の主力艦に激突することでございます。特攻隊としてお国のために散るということは当時の日本では大層名誉でございましたが、それほどにまでして日本は敗戦の色が濃かったと言うことであります。もちろん特攻隊で生き残るのは不名誉なことでありますが、この街からも明日特攻と言うときに敗戦したという放送が流れたという若い方もいらしておりました。しかし、わたくしにはもう、敏弥が帰ってくるようには、思えませんでした。しかし希望を捨てれない自分が居ることは心のうちにしまっておくのが一番でありましょうか。彼と一緒に撮った写真は、毎日着物のうちに入っております。写真の中には無邪気に笑う、敏弥と、京くんと、薫くんと、堕威くんと、心夜くんの姿が映っておりまして、そのころのことを少し思い出してしまう次第であります。五人のうちまだ帰ってきていないのは、彼一人でした。お国が負けてから一月たちまして、まだまだ、この街に帰っていらしてくる方はたくさん居ります。今日もわたくしはわずかな希望を胸に抱きながら駅にて彼の帰りを待っております。











幾月かの時間が経ちまして。暦はすでに秋から冬になろうとしておりました。結生はいまだに帰ってくることはなく、季節だけが早々と過ぎ去っております。彼のお家のご家族も、いつもの仲良し五人のうち彼だけ帰ってこないのを嘆いておられましたが、彼のご家族は他の四人が帰ってきた時も、まるで本当の家族のように喜び、涙しておられました。まことくんと、くにと、健一くんとテツさんと。一人ずつ、健一くんとまことくんは同じでしたが、汽車から降りてきた時の、喜びはわたくしも今でも忘れません。しかし、そこに一人だけ居ない彼を思い出しては、胸がズキズキと痛んでおりました。冬の寒さと厳しさは、駅で長い間汽車を待っているにはつらく、薄い着物ゆえ、それはそれはさむうございました。駅は空襲のせいで隙間が増え、隙間風がとてもさむうございました。毎日、毎日、わずかな希望だけを胸に、駅で汽車を待っておりました。時にはまことくんと一緒に待っていたときもありました。またある日は雨の中テツさんと穴が開いた傘を差しながら汽車を待った日もございました。しかし、もう汽車から降りてくる人は、深い緑色の軍服ではなく、スウツの紳士や、都会の方々など戦争前の駅の光景に戻っておりました。もうあきらめようとおもっておりました。その思いと比例して、あまり駅に行かなくなっていたわたくしでしたが、ある日、集団で帰ってきた人々が居ると聞いて、わたくしもあわてて駅に行きました。靴は戦争で焼けてなくなっており、走ると言うことを久しくしていなかったのですが、わたくしは裸足で国民学校から、駅までの道のりを一所懸命に走りました。途中何度も足の裏に痛みを感じましたが、気にせず、走りました。わたくしの少し後ろには結生と仲の良かったまことくん達も一所懸命に走っておりました。駅につくと久しぶりの人ごみに、あたふたいたしましたが、まことくんや、テツさん、健一くん、くにのおかげでなんとか汽車のまん前まで行くことが出来ました。汽車の扉が開くと、ずっと待っていた彼がへにゃりと笑ってわたくしの名前を呼んでおりました。わたくしはずっと待っていた彼が目の前に居て、わたくしの名前を呼んでることがゆめなのではないかと、本当に、本当に言葉も出ませんでした。汽車から降りてきて、彼はわたくしと、そばに居たまことくんたちに一人ずつ話しかけ、自分がなぜこんなに帰ってくるのが遅くなったかを話してくれました。それは、冬も近づいた霜月の初旬。結生がこの街に帰ってきました。何より無事で、本当によかったです。











薫がこの街に無事に帰ってきて数日。わたくしはもう駅で汽車を待つことはなく、今日も国民学校に通っております。薫が何故あれほど日本に帰ってくるのが遅かったのかを、彼が帰ってきてしばらくしていつもの京くん、敏弥くん、堕威くん、心夜くん、ご家族と、そしてわたくしで共にお話を聞くことになりました。今年の八月十五日にわたくしたちの生きる日本は亜米利加に破れ、敗戦となりました。そして天皇陛下は人間だと、玉音放送が流れました。しかしそれは日本の中だけの話であり、特攻隊としてフィリピンに居た彼にはその放送も届かず、いまだ硬直状態が続いていたそうですが、幸い軍の上層部のお方がとても命を尊く思っていらっしゃる方だったそうで、連絡が途切れると特攻させずに待機して待つようにとおっしゃっていたらしく、しばらくして敗戦の知らせがフィリピンにも届いたといういきさつであったと薫は言いました。しかし彼は元々足が悪かったもあり、戦線を離れさせられ、そしてよい上司の居る配所に行けたという偶然なのか奇跡なのかが何度も起こったおかげで彼は今こうして此処にいる次第でございます。それを聞いた敏弥くんや堕威くんは薫の無事を祝杯すると言って今日は盛大な宴会が開かれる様子でありました。最初は薫も断っていたのですが、数ヶ月もの間、会えなかった友にこうしてまた逢えたことはやはり奇跡の確立だということで、結局開かれることになりました。薫、京くん、敏弥くん、堕威くん、心夜くん、そして各々のご家族と、僭越ながらわたくしも参加させていただくことになりました。乾杯からはじまり、しばらくは薫もわたくしもお酌していただいたので飲んでおりましたが、しばらくして酔いを醒ますために縁側に行き、しばらく夜空を見ておりました。戦争がはじまって空をゆっくりみる機会など到底なく、見れても防空壕からみる空は何処かくすんでみえておりました。今見ている空は、偽りなく、澄んでおります。酔いも覚めてきた頃、薫も縁側に来て、わたくしの横で座ってなにやら考え事をしておりました。肌寒い空の下薫は戦争に行く前に言ったあの約束のことをわたくしに言いました。「卒業したら、結婚せえへんか?」その薫の一言に、わたくしは涙がとまりませんでした。来年の三月には薫、京くんたち、わたくしと皆様そろって国民学校を卒業する年齢となります。涙を流しながらわたくしは薫に抱きつき、早く三月になればいいのに、と薫の胸元で小さく言うと薫はふ、と笑ってわたくしを抱きしめ返してくださりました。それは、戦争が終わって数ヶ月年が経ち、日本が保護国化され、近代化を目指し始めて月日が流れた、ある冬の日のお話でございました。

(〜20081105/かめなしかずや[KAT-TUN]・としや[DIRENGREY]・ゆう[MERRY]・かおる[DIRENGREY])